世の中のあらゆることは相対的にできている

 「この世の中のあらゆることは、すべてが相対的だ」と書かれても、なんのことなのかおそらく分かってもらえないと思います。 「冷たいということが分からなければ、熱いということを正確には理解できない」と言い直せば、分かってもらえるでしょうか。 生きていくうえでこのことを理解しているのと、理解していないのでは生き方、考え方そのものが大きく変わってくると確信するからです。 それだけ重要なことだと思うのです。

  「人間は生きるうえでなぜ悩まなければならないのか」、これこそが古来からの謎であり、お釈迦様は「人生は苦である(人生は自分の思うようにはならない)」と看破されて救われたのです。 よく「救われる」という言葉を安易に使いますが、「救われる」とはどんなことなのでしょうか。 私の勝手な解釈によれば、「現実を受け入れることができること」とでも言えると思います。 宗教的なことはさておいて、「この世の中のことは、すべてすが相対的だ」ということが分かれば、世の中は大きく変わり、自分も現実を受け入れやすくなると思います。

  相対的ということは、

高いところがあるから、低いところがあるということを理解できる
  ・ 地球上のすべての場所が高いところだけなら、それは高いとは言えない (比較する対象がないから)
    概念として「高い」と分かっても、実感として感じ取ることができない
  ・ もう一歩進んで、「高い・低い」の概念さえ生まれてこないことになる
暑い季節があるから、寒いということを理解できる
熱いから、冷たいということが理解できる
はじめがあるから、終わりがあるということを理解できる
憎しみがあるから、愛することのすばらしさが理解できる
悲しみがあるから、よろこびが理解できる
希望があるから、絶望があるということが理解できる
   ・ 希望のないひとが絶望しないのは、このためだと思います 
「生」があるから、「死」がある
暗いから明るいということのすばらしさが分かる
不安があるから、安らぐことのすばらしさが理解できる (正確には実感でるといった方がいい)
悪があるから、善がある
不自由があるから、自由のすばらしさが理解できる

   このように人間はすべてのことに反対のことがあることによってのみ、そうでないことの意味が理解できるのです。 生きていくうえでこのことを理解していれば、悩みや苦しみや絶望に負けて、自らの命を絶つということは少なくなるのではないかと思います。 つらいときに、そのつらさは人生にとって必要なものだと他人がいくら説明しても、本人には分かってもらえないでしょう。 このようなことは結果として分かることであって、問題の渦中にある人には分からないのが当たり前だと思います。 それでもなお、この世の中は相対的だということを体で理解すること、もっと言えば納得することが必要なのです。 そうすればマイナスは単なるマイナスに終わらないはずなのです。 マイナスをマイナスのままに終わらせてしまうのは、一人一人の考え方なのです。 人生にとって一見マイナスに思えることも、実はマイナスではないのです。 このことは大切なことなのであとで触れます。 人間はすべてのことは、なにかと比較しなければ本当の意味を理解できないようにできているのだと思います。  

  いまここに書いていることは、このホームページ全体の中でも私が最も力説したいところです。 いくら言っても、言い足りないところです。 私たちの世界は比較対照の世界であるならば、自分をなにと比較するかによって人生の意味が決定されると思います。 言い換えれば、価値判断の基準をどんなことに置くかということです。 基準を仕事に置くのか、家庭に重点を置くのか、経済的利益の追求に置くのか、自分の精神的な安定の追求に置くのか、他者との調和の中に置くのか、または別のことに置くのかによって人生の意味やあり方は大きく異なってきます。 

  苦しみや悩みはなんのためにあるのか。 それは喜びや楽しみというものがどんなものであるかを知るうえで、必要不可欠だからだと思います。 苦しみや悩みを通して喜びや楽しみを知り、人生の生き甲斐をつかむためにあるのではないでしょうか。 こう考えると苦しみや悩みに対する考え方も、変わってくるのではないでしょうか。 苦しみや悩みを知らない喜びや楽しみは、偽物だということになるでしょう。 偽物と言って言いすぎであれば、「もろいもの」と言わせてもらいます。 本当に強い人、本当に明るい人になるためには、苦しみや悩みを経験しなければならないのだと思います。

  不幸の意味が分かってこそ、しあわせのなんたるかが分かるのです。 逆境を知らない人は、本当のしあわせを知らない不幸な人だといったら言い過ぎでしょうか。 不幸せな人間のひがみ根性なのでしょうか。 このことを煎じ詰めていけば、不幸だからといって嘆いてばかりいては、本当に不幸になってしまうということです。 そのような人はなぜ自分がいまの不幸な状況にあるかを考えようとしないからです。 ただ自分の不幸を嘆いてばかりいるからです。 不幸をしあわせに変えること、そのものが人生かも知れません。 

  だから苦しみを経験したのこのない人には、他人の苦しみが分からないのです。 自分が経験したことのないことは、分かろうとしても分かりようがないのです。 理屈では「あの人は苦しんでいるなぁ」と思っても、その苦しみがどんなものなのか分からないのです。 要するに他人の心に共感することができないのです。 自分がいろいろなことを経験しているからこそ、共感できるのです。

 このことを理解していれば、自分がつらい目に遭っているとき、苦しい目に遭っているときの生き方がまったく違ってくると信じています。どんな絶望のときにあっても、希望を持ち続けることができると思うのです。 いま自分が苦しんでいるのは、その苦しみを通じて自分が学ばなければならないことがあるということなのです。 でも、自分が確信を持ってそう言えるかといえば、疑問符がつかざるを得ませんが。

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