他の人と比較するから苦しみが生じる、苦しみが大きくなる

 「人間はなぜ苦しまなければならないのか」は、人間の死とともに人生の最大の問題として古来から論じられ、様々の哲学や思想そして宗教が生まれてきました。 お釈迦様は「人間はなぜ苦しまなければならないのか」ということから出発して、世界の三大宗教のひとつと言われる仏教を開いたと伝えられています。 私ごときものに人生の苦しみの意味を明解に言うことはできませんが、前に書いたように、「苦しみがなければ生きる喜びが分からないから、苦しみがあるのだ」とだけは思っています。 なぜなら、この世の中のすべては相対的だからです。 相対的ということは比較するものがなければ、そのもの単独では意味を持ち得ないということです。

  「楽しみ」というものは、頭の中ではおおよそどんなものかが理解できても、「つらい・苦しい」ということを経験することによって楽しみの本当のすばらしさが分かるものと思います。 このことについては「この世の中はすべてが相対的だ」を読んでください。 毎日が人もうらやむような本当にしあわせな生活をしていても、それを退屈と感じることが例として引き合いに出されますが、それはしあわせの対局にあること、すなわち不幸を知らないから本当の幸せも退屈にしか思えないのです。 不幸ということを実感として体験することがなければ、どんなしあわせもしあわせとは感じられないのです。
 本当に贅沢な悩みですね。

  このように考えなければ、ほかに考えようがないし、生きていけないと思うのです。 しあわせになるためにそれ以外に考えようがないということは、そう考えることが真実だということではないでしょうか。 苦しみ・悩みや不安を人生に必要のないものと理解すると、ただでさえ苦しい人生がますます苦しいものにならざるを得ないと思うのです。 不必要なものであれば、「避けようと思えば避けられたのに、なぜ自分だけが辛い目に遭わなければならないのだ、なぜ自分だけに苦しみがおそってくるのだ」と、人生を呪うことになってしまいます。 そのような人生は人をうらやんだり、呪ったり、恨んだりするだけの人生になり、すべての努力はむなしいものに向かうようになってしまうと思います。

  人生に生き甲斐をもたらしてくれるものこそが、私たちにとっての真実なのです。 ここで混同されると困るので一言付け加えておきます。 それは真実と事実とは違うことだということです。

  でも考え方を変えて、苦しみは人生に必要なものと考えると、自分はなぜ苦しみを体験することが必要なのかを考え、そこに生きる意味を見いだしていくことができると思います。 悩みや苦しみは自分が成長する上で必要だからあるのです。 でも苦しみのさなかにあるひとにとっては、いくら言われても納得しがたいことも事実です。 このことは他の項目でも繰り返すことになりますが、過去を振り返ったときにはじめて納得できることなのです。 

  比較するから苦しみが生じる」とはいっても、私たちの生活は自分以外の人との比較なしでは成り立たないことも事実でしょう。  ここに大きな矛盾が生じます。 この世の中は相対的なのですから、自分以外のだれかとの比較なしでは自分は考えられないのです。 この問題を解決するポイントは、比較することを能力の優劣を競うことと考えるか、単に自分と相手との違いを認識するためと考えるかにあると思います。 比較することを他人との能力の差を競うことと考えれば、必然的に周囲を過剰に意識せざるを得なくなり、常に相手の動向に注意せざるを得なくなることは前に書いたとおりです。 その結果、自分は相手より劣っていると考えれば、不安がその人を支配するようになるでしょう。 比較することを相手との違いを見つけるためと考えれば、そこに自分の存在価値を見いだすことができると思います。 違いがあるからこそ、多種多様の生き方があり、そこによい意味での競争が生まれ、個人の成長もあり社会の発展もあるのです。 ざっくばらんな言い方をすれば、「人は人」・「自分は自分」なのです。 自分には自分にしかできない生き方があるはずなのです。

  苦しみや悩みの発生する原因の多くは、「違い」を「能力の差」と同一視することにあると思うのです。 両者の違いをよく考えてみて欲しいのです。 容貌は個人の好みによるものであり、ある人にとっては短所と見えるところも、別の人にとっては長所と見えるかも知れないのです。 「好み」は能力の差ではなく、単に個人の感じ方の違いなのです。 そこには優劣や善悪の違いはないのです。 

   要は、「違い」を「能力の差」と考えるから苦しみが生じるのではないでしょうか。 違いは違い、能力の差は能力の差と、分けて考えればいいと思うのです。 しかし、この両者を峻別して考えることは、自信のない人にはできないところにジレンマがあります。 他人と自分を比較することで、能力の差を感じとり、能力の差を重荷と考えるから苦しい人生になるのだと思います。 しかし世の中には能力の差が歴然とあることは事実です。

  比較するということは他人の生き方や考え方を参考にするということであり、参考にするということは、そのことに捕らわれることとは違うのです。 ほかのページに書いた「気にすることと苦にすることの違い」を読んでください。 他人の生き方や考え方を参考にするということは、自分の欠けているものがあればそれを補う努力をし、人様の役に立てるものが自分にあれば与えるということではないでしょうか。 「とらわれる」とは相手の生き方や考え方を単にまねをしたり、自分に欠けているものがあって欠けていることを自覚しながらも、それを補う努力をせずに相手をうらやんだり、恨んだりすることだと思います。 簡単に言えば、とらわれることによって、自分の人生を見失ってしまうことです。

優劣  …  能力的に差があること
相違  … 考え方や方法の差であり、能力的な差ではない

  こう考えれば、自分をだれかと比較することは自分を不安にさせることもなくなるのではないでしょうか。

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