自分の責任範囲を明確にしよう

自分の責任範囲を明確にしよう

  「自分の責任範囲を明確にしよう」と言われただけでは、なんのことかわからないと思いますので、交通事故の例で説明したいと思います。 不幸にして自分が交通にあってあるいは交通事故を起こして、裁判沙汰になったと仮定します。 裁判で双方の過失割合について争われますが、双方の車が走行中に起こした事故については、ほとんどの場合どちらかが一方的に悪くて、他方にまったく過失がないということはむしろまれなようです。 すなわち裁判の争点は自分の過失割合が何割で、相手方の過失割合が何割ということになります。 その結果が金額としてでてくるのです。 このようなことは誰でも知っている常識ですが、自分が生きていくうえで自分の負うべき責任はどこからどこまでかは、意外に省みられることが少ないのではないでしょうか。 

  私も若いときは、なにかがあって結果が思わしくなかったり、悪かったときは自分のせいだと思うことがよくありました。 そう思うことが思いやりであり、人間としてできた人のとるべき態度だととんでもない思い違いをしていました。 個人生活においても、仕事においても本当にそう考えていました。 そして仕事上では、相手がなすべきことまで引き受けさせられて(引き受けさせられてという表現はおかしいのです、引き受けたのは自分だからです)、陰でその人の悪口を言っていたものでした。 でもいま振り返ってみると、私のそのような態度は自分の弱さを証明するもの以外の何ものでもなかったということに気がつきました。 

  相手がやるべきことを押しつけられたときは、断固として拒絶すべきだったのです。 それができなかったのは自分の弱さでなくて、なんだったのでしょうか。 自分の弱さを認められないから、陰にまわってその人の悪口を言っていただけだと悟ることができました。 また相手の負うべき責任や自分の負うべきでない責任までも負ってしまうと、生きることがとてもつらく、苦しくなってしまいます。 自分のかっこよさを示すために、自分の弱さを隠すために、自分に関係のない責任までを背負い込んでしまうのです。 自分にも能力のあるところを見せたかったのです。 そしてろくな成果も上げられずに、自分の評価を自分で下げてしまっていたのです。 自分の評価を上げるのも、下げるのも本当は上司や相手ではなくて、自分だったのです。 このことについ最近まで気がつきませんでした。 そしてつまるところは相手の悪口を言ったり、相手を呪ったり、会社を恨んでしまっていたのです。

  通り魔事件の報道を見たり、聞いたりしていると「相手は誰でもよかった。 むしゃくしゃしていたからなにか大きなことをしてやろうと思った」という言葉を耳にしますが、そのような犯人は自分の心の弱さから自分が背負う必要のない責任を背負ったり、あるいは背負わされたりして社会を呪うようになった人なのではなのかも知れません。 私にはそんな気がしてならないのです。 どんな人でも悪いことをするには、それなりに最初の動機というものがあるはずです。 なにごとも動機なくして、行動はあり得ません。 その動機となったものが、自分の考え方の間違いをはらすたるの社会への恨みではなかったのでしょうか。 自分でも取り除くことのできない屈折した気持ちを、通り魔という方法で取り除こうとしたのではないでしょうか。 相手がだれでもよかっという犯罪の動機は、このようなものではないでしょうか。 

  自分が背負う必要のない責任までも背負い込むと、自分ひとりの責任が重くなり、相手は責任逃れをしてのうのうとしているのを見ると弱い自分が情けなくなり、自分の内面を見ることが恥ずかしくなりそして怖くなってしまいます。 そうして現実から逃避する原因となってしまうのです。 生きることを楽になるためには、自分の負うべき責任と、相手の負うべき責任の範囲を明確にすることを避けて通れないと思います。 それができれば、生きることがどんなに楽になるかを実感できるはずです。 私がそうでしたから。

  理屈では分かっているのだけれども、最初の一歩が踏み出せないという人は大勢いると思います。 なぜできないかと言えば、

いままでだれにも拒否できなかった自分が突然拒否すると変に思われはしないか
相手の要求を拒否することで嫌われることが恐ろしい
相手を拒否することで、どんな新たな状況が生ずるか恐ろしい
自分自身に自信がないから言えない
自分が突然変わると笑われはしないか

 などが、考えられます。  

  しかし、この一線を勇気を出して踏み越えなければ、自分を取り巻く状況は変わることはないのです。 現状のままで苦しい生き方を選ぶのか、一時は変に見られたり思われても新しい生き方を選ぶのかは、一人ひとりの決断次第です。 自分以外のだれかが決めてくれることではないのです。 自分が決めることなのです。 宮本武蔵の書いた書物(書物の名前は「葉隠れ」か「五輪の書」なのかは確かではないので書きません)のなかに、真剣勝負でお互いに刀を向け合っているときに、「思い切って切り込んで見ろ」という文句があるそうです。 そうすればそこには天国があるかもしれないと書いてあるそうです。 切り込むことが怖いので、いつまでも刀を向けあっていてもどうにもならない、「思い切って切り込んでみれば相手を倒すこともできるかもしれない、あるいは自分が切られて死んでしまうこともあるかもしれない。 ただ命を懸けて決断すれば結果はどうなっても、問題ではない」ということではないでしょうか。 俗っぽい言葉で言えば、「やってみなければ分からない」ということです。 ところが現代人の多くは、やる前に結論を出していることがあまりにも多すぎるのではないでしょうか。

  先に結果を考えていたらなにもできない人間になっても不思議ではありません。 なぜ結果を先に考えてしまうのかは、ここでは扱いません。 開き直って自分の信ずる道を一歩だけ踏み出してみることがすべてです。 「そう一歩だけを踏み出すことがすべてなのです。」  あえて一歩だけと、強調します。 次からは最初の成功が自信となり、言えるようになるはずです。 

  自分の責任範囲を明確にして、その責任を分担しあうということは個人主義の原則に合致しているし、よけいな苦労をしなくてもいいということです。 相手や社会を恨むことも、ずっと少なくなるはずです。 

  自分の責任範囲を明確にするということについて、具体的な例を挙げてみたいと思います。
第一に、自分が相手に忠告したことを相手がその通りにして失敗した場合があります。

自分があんなことさえ言わなければ・しなければ相手は失敗しなかったのだ。 悪いのは自分だ
自分があの人を誘いさえしなければあそこには行かず、けがをしないで済んだのに。 悪いのは自分だ
自分があの宗教に勧誘さえしなければ、あの人は毒ガスをまかずにすんだのに。 悪いのは自分だ

 このようなケースは意外に多いように思います。

第二に自分の責任の取りようのないことで、自分を責めてしまうことも多いと思います。

この両親のもとにさえ生まれなければ、自分はこんないやな思いをすることはないのに
親や兄弟が殺人を犯したとしても、自分にはどうしようもなかったことなのです
        ・ 「おまえの兄弟は殺人者だ。 おまえも死んでしまえ。」
        ・ 「親の借金は、子供のおまえが払え。」

 このように言われたとしても、自分には一体どんな責任があるというのでしょうか。 肩身のせまい思いをすることはあっても、自分には殺人に対する責任はなにもないのです。 子供が親のしたことで、法律上は借金を肩代わりする必要はないのです。 このように自分以外の人のしたことの責任は、自分にはどこにもないのです。 このようなことを言われて、罪悪感を感じ、責任をとるような行動をする必要はどこにもないのです。 必要のない責任を背負い込んでしまうから、ただでさえ苦しい生き方がますます苦しくなってしまうのではないでしょうか。 この社会はもっと個人のしたことは、その人が責任を持つという個人主義の考え方を学ぶ必要があると思っています。

  ずるい人間は、心の弱い人間がこのような場合、関係のない人の責任をかぶってくれるということを知っているから、あの手この手で責め立ててくるのです。 そこのところをよく理解してほしいのです。 お互いの責任を明確にできれば、生きることがどんなに楽になるかは私は自分の人生で証明済みだと信じています。 ずるい人間に自分の弱さを利用されないように、気をつけたいものです。 心の弱い人ほどずるい人間の餌食にされて、そしてますます自信を失い、自分を信じられなくなっていくのです。

  次の話はだいぶ前にラジオで聞いた話ですが、人生を考えるうえでとても示唆に富む話なので、紹介しておきたいと思います。 有名な外科医のことだそうです。 「手術した患者が手術のかいもなく死亡することについてどう思うか。 死亡した患者に対する医師としての責任についてはどう思うか。」と、質問されたときの話です。
 
  その医師は、「私たち医師は最新の技術と最良のスタッフで、最善を尽くして医療に当たっている。 私たち医師は最善を尽くして手術をしているのだから、私たちの責任はそこまでだ。 患者がよくよるかどうかは、患者自身の問題だ。」と言っていました。 多くの日本人には責任逃れの言葉と聞こえるかも知れませんが、このように考えることは必要不可欠なことと確信します。 これなどは医師としての責任の範囲を明確に示しているものではないでしょうか。 どんなに優秀な医師とテクノロジーとスタッフを持ってしても、助からない人もいるのです。 最善を尽くしても助からない人の責任までは負いかねるのが現実であり、また当然だと思います。 医師は治療に最善を尽くすことが医師としての責任であり、それ以降のことは医師の責任を離れた問題なのです。

  このように自分の取るべき責任の範囲、と相手の取るべき責任の範囲を明確にすることによって、社会生活がうまくいき、自分もよけいなことで悩まないで済むことになるのではないでしょうか。 相手の負うべき責任をとらせられようとしたときは、はっきりと拒絶することが生き方を楽にするとともに、自分に自信を与えてくれます。 自分は大切なところで妥協しなかったということが、自分自信を信じられるようにしてくれるのです。 

  自分の責任範囲を明確にすることこそが、よけいな苦労を背負い込まない秘訣だと思います。

  「言わなければならないときに言えなかった」ことが、自分への信頼感をなくさせ、自信を失わせ、そしてなにもする気がなくなり、ついには生きることさえ苦痛にさせるのではないでしょうか。

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