無気力(目標がない)で生きていくから、生きることがよけいつらくなる

 「自分は無気力でなにもする気になれない。 毎日がつらい、どうしたらいいでしょうか」ということを、よく見聞きします。 なにもする気になれないということは、目標がないということであり、目標が分からない、なにごとにも関心を持てないということでしょう。 どんな人でも生きることがつらくなれば、社会や周囲との折衝を避けるようになります。 でもここに、落とし穴があるということについ最近気がつきました。 いままで色々と書いていて、なんで気がつかなかったのだろうと感じてしまいました。  

  人間はなぜ毎日の生活が面白くなくなるのか。 

自分を認めてもらえない
自分が嫌いでならない (いつも自分を責めてしまう)
家族や職場などには自分の居場所がない
なにをしても、自分の思い通りにならない
自分で自分をどうすることもできない
人間を信じられない
他人と比較して、自分はなにごとにおいても見劣りがする
容姿が気にくわない
なんの取り柄もない
なにをするにしても、世間体を最初に気にしてしまう
マイナス思考だ

  このほかにも色々と上げられるでしょうが、これくらいにしておきます。 

  要するに現実を受け入れられないから、ありのままの自分を好きになれないから、生きることがつらくなってしまうのです。 そして自分の無力感を感じなにもする気になれなくなって、気力を失ってしまうのです。 気力を失うということは、生きる目標がなくなった状態です。 目標がなくなれば、生きることはつらくなって当然なのです。 人間なにがつらいかと言って、自分のしていることに意味を見いだせないことほどつらいことはないと思います。

  これから書くことは何十年も前に読んだことですから、ギリシャ神話でタイトルは確かではありませんが「シジフォスの神話」といったように記憶しています。 (間違っていたら、ご免なさい。) その話の内容はある男が神様から罰として、石を山の上に転がして上げるという罰です。 その石を山頂に上げると、石はまた山のふもとに転がってきて、その男はまた押し上げる作業を永遠に繰り返すということでした。 この罰には一体どんな意味を見いだせるのでしょうか。 それでも神の命令だから耐えられるのであって、だれか人に命令されたことだったらとても耐えられないことではないでしょうか。 なぜなら、そこに意味を見いだせないからです。  

  人間は意味のないことには、耐えられないのです。 だからもがき苦しみながら、生きることの意味を必死になって探すのです。 生きることの意味は、生まれてくる前から定まっているものではないと思います。 それを探そうとするから、見つからないのではありませんか。 元々ないものは、探して見つかるはずがないのです。 生きる意味は、一人一人が苦しんで、経験の中からつくりだしていかなければならないものだと思います。 一人一人の環境(条件)が違うから、生きる意味は人それぞれに違って当然なのです。

  これはどこかに書いたことですが、それなのにできあいのスーツを着ようとするから、なんとなく自分に合わないように感じるのではないでしょうか。 本来は自分の体格にあったサイズのスーツをつくらなければならない(自分なりに努力しなければならない)のに、標準的なサイズ(常識とか世間体といったこと)に自分を押し込めようとするから、生きることがなんとなくおかしくなって、そこから生きることがつらく苦しくなってくるのだと思います。 そして無気力になってしまうのです。

  いま無気力で生きることがつらい人には、次のことをぜひ考えてみて欲しいのです。 それは「毎日を無気力なままでくらしているから、目標を探そうともしないでくらしているから、毎日がつらいのではないか」と考えてみて欲しいのです。 目標を探そうとするから、目標が見つからないのではないでしょうか。 目標とは、いろいろなことを経験する中で「これだ」と思い至ることだと思います。 あせって、目標を探せば探すほど見つからなくなるのではないでしょうか。 本当に皮肉で、逆説的なことなのですが。 目標を探すことより、いま自分のしたいことをやってみることが必要だと思います。 そのようなことの中に、目標があるのだと思います。   

  つらいからやる気がなくなったのではなくて、むしろやる気がなくなったからつらくなったのではありませんか。 その証拠に自分の興味のあることは、少々つらくてもあまり苦にならないではありませんか。 徹夜をしても、そんなに疲れを感じないし、むしろ充実感を感じるではありませんか。 決してつらいから無気力になったのではないのです。 無気力になったから、なにごともつらく感じてしまったのです。

  きっと次のように反論されると思います。 「なにもしなくても苦しくて仕方がないのに、なにか行動しろとはどういうことだ」と。 いま無気力に苦しんでいる人が陥っている最大の思い違いは、「苦しいからなにもしないのだ」ということではないでしょうか。 私に言わせれば、「無気力に生きているから、生きることが苦しくて当然だ」と言わせてもらいます。 なにも怒っているわけではありません。 勘違いに気がついて欲しいだけなのです。 目標もなくただ漫然と生きていれば、生きることが苦しみでなくてなんだというのでしょうか。 

  「なにもしなくても苦しいのに、なにかしたらますます苦しくなるのではないか」。 多くの人は、こう考えると思います。 しかし、それこそが最大の思い違いなのです。

  なにもしないで無気力にくらしているから、毎日がつらくて仕方がないのです。 そこをあまりにも逆に考えしまうことが、多すぎるのではないでしょうか。

  確かに無気力なままでくらしてきた人に「なにかはじめてはどうですか」と言っても、最初はなにをしたらいいのか見当もつかないかも知れません。 それでもなおかつ、「なんでもいいからやってみなさい」と言いたいのです。 無気力に苦しんでいる人は、なにもしないことが一番楽だと誤解して、結果的に一番つらい生き方を選択してしまったのです。 なにかはじめてみれば、後戻りはしたくないし、考えるよりはどうにかなるものです。

  何度も繰り返していることですが、はじめにすることはささいなことでいいのです。 はじめから大きなことをやろうとしても、失敗する確率が高くなり、結果としてはますます自信を失う可能性だけが高くなりますから。 ささいなことができたら、次には目標をもうちょっとだけ大きくすることです。 あとは、この繰り返しだけです。 もちろん、その過程で失敗もあるでしょうが、諦めないことです。 そうすれば、必ず無気力な生活から抜け出すことができるはずです。

  どんな人にとっても、生きることは苦しいのです。 このことに例外はありません。 ただ目標のはっきりしている人には、その苦しみに耐えられる力が具わっている、自然に備わってくるだけです。 その力も元々から具わっているものではなく、様々な経験を通して具わったものです。 苦しんでいる人には、そんなふうには考えられないかも知れませんが。 自分で一番楽な生き方を選んだはずが、実は一番つらい生き方を選んでしまったのです。 

  いま苦しんでいる人にはきつく聞こえるでしょうが、現実から逃げていたからいま苦しんでいるのではないでしょうか。 逃げている以上は、苦しまなければならないのです。 それも前向きの苦しみではなくて、後ろ向きの苦しみで。

  嘘だと思うなら、なにかはじめてみてください。 必ず生きることがいまより楽になると確信しています。 人間は行動することによって、自分の存在と意味を確認していく動物です。 それなのになにもしようとしないから、よけいに苦しむことになるのです。 

  つらいからなにもしない。 なにもしないから、よけいつらくなる。 これが無気力になってしまった人の生き方ではないでしょうか。

  この悪循環から抜け出すためには、行動を起こすしかないのです。 それはひとりひとりの決断次第なのです。 行動を起こせない人は、いまの苦しみが続くだけではないでしょうか。

  ちょっときつい言い方になったかも知れません。 でも、よくよく考え直してみて欲しいのです。

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