人生の物差し(尺度)

 科学にはものごとを客観的に計るために、基本単位となる尺度とか理論と言われるもの、いいかえれば「ものさし」が必要になります。 長さはメートル、重さはグラム、面積は平方メートル、気圧はヘクトパスカル、磁気はガウスといった具合です。 この尺度があるからこそ、科学は成り立つのです。 各人がばらばらのものさしを使っていては、ものごとを客観的に見ることができないので、すべての学問はある一定の前提の上に成立しているのです。 少し難しいことを言うようですが、みんなに科学的と認められるにはだれでもが納得できる客観的な前提が必要なのです。 

  人生についても生きるための前提が必要なのです。 ところが人生のものさしというものは、各人各様であり科学のように「これが基準だ」と一律に決められないところに問題の複雑さがあります。 個人の世界観、人生観によって違うからです。 ものさしと言うからには、その個人にあっては自分のすべてを統一的に決定するものでなければならず、こういうときはこのものさしを当てはめる、別の場合はあのものさしを当てはめるということであってはならないのです。 でも現実には自分の都合のいいように、そのときどきで使い分けることが多いのですが。 自分の人生を支える基本原則なので、行き当たりばったりなものはものさしにはなり得ないのです。 個々の現象に応用するときには別々のものさしを使っているようにみえても、基本はひとつでなければならないのです。 

  人生のものさしとは、具体的に言えば

個々のできごとにどう対応するかと言った統一的な原則
個人を優先するのか、組織を優先するのか
組織の中での自分の役割をどう考えるか
近所づきあいはどうするか
自分にとっての仕事とは人生のすべてなのか、生活費を得る手段にすぎないのか、または別のことなのか
組織と個人の生活をどのように両立させるのか
家庭での自分の役割は

 など、数え上げれば切りがありません。 要するに生きていくうえで自分はどう考え、どう行動するのかという基本的な考え方が人生のものさしと言えるでしょう。 このものさしは知恵と言ってもいいかも知れません。

  人生のものさしは同じ人の中にあっても、ときとところによって様々な姿で現れてくるので、なんの尺度もないように見えることもあるでしょう。 しっかりした人は、何ごとに対しても自分なりのものさし(価値判断の基準)を持っており、必要に応じてものさしの組み合わせを変えて、そのときどきに最良と思われるものさしを選択しています。 後で書く予定ですが、どうでもいいことはどうでもよく、一見どうでもいいようなことでもその人のものさしからすれば、妥協のできないことは断固として拒否するものです。 このような人は他人から見るといい加減に見えるようなことでも、自分なりにしっかりと判断しているのです。 だから他人に付け入る隙を与えないのです。

  これに対していい加減なはものさししか持ち合わせていないので、すべてのことをその場の成り行きや雰囲気で行き当たりばったりに決めているので、統一性がなく、だれからも信頼されなくなるのです。 おしまいには、自分がなぜそのように決定したのかさえ分からなくなってしまうのです。 しなくてもよい苦労を、自分ですすんで創り出しているのです。

  人生のものさしを持っている人と、持っていない人では長い間に大きな開きがでてくるばかりでなく、苦労や悩みの量も質もまったく異なってくるでしょう。 そのときは面倒くさいからといってその場しのぎばかりしていると、後になって結局は大きなつけを払うことになります。 ただこのものさしも不変のものではなく、年とともに、経験を重ねるとともに変わって行くべきものだと思います。 若いときに社会のこともよく分からないで、自分はこういう考え方をするのだと決めても、若いときの自分の知識や知恵の範囲で決定したことであり、足りない部分がいっぱいあるかも知れないのです。 ただそのときはそのときで、最良の決定をしたとだけは言えます。 それでいいのです。  そのときどきで最良の決定をすることが大切なことなのです。 それ以上のことは、したくてもできないのですから。 

  年を重ね、経験を重ねるとともに社会のより多くのことが分かってくると、いままでの考え方を軌道修正しなければならないときがやってきます。 そんなときは、迷わずに軌道修正すべきです。 日本人の悪い癖として、一度決定したことは、絶対に変えてはならないと思いこみがちだということがあげられます。 そのときには最良の決断と思って決定したことが、状況の変化や心境の変化に合わなくなることがあります。 そのようなときこそ、自らすすんで時代に合わなくなったことを素直に認めることが、生きることを楽にしてくれます。 時代や人々の考えに合わなくなったことにいつまでもしがみついていると、苦労ばかりが多くなり、得ることがなくなります。 

  時代やものの考え方が大きく変化しているのに、自分の考えにだけしがみついていると社会との軋轢が大きくなり、自分が社会に受け入れられないのは社会が悪いせいだと思いこむようになりがちです。 そして社会を恨み、自分の人生を無意味なものにしてしまいます。 私がここで言っていることは、社会に迎合しなさいと言っているのでは決してありません。 もし社会が悪いのなら徹底的にその悪を追求することです。 ただ自分の考え方が間違っているのに気がついても、いったん決めたことは変えられないといって、そのことにしがみついて自分の人生を苦しいものにしてはならないと言っているのです。

  ものさしでさえも温度や湿度の変化とともに狂ってくるものです。 まして変わりやすいひとの心は、常に現実との整合性を図ることが重要です。 なおかつ、自分を失ってはならないのです。

  人生のものさしには、証明が必要でしょうか。 これは大変難しい問題です。 私は証明はいらないと思います。 正確に言えば、証明することはできないと思います。 「なぜあの人が好きなの」と聞かれると、「一目惚れした」とか「なんだか分からないけれども、好きなの」ということが一般的ではないでしょうか。 たとえば「ルックスがいいから」とか、「足が長いから好きなの」ということはあるでしょうが、ほかにもルックスのいい人や足の長いひとはいるのに、なぜ彼だけを好きになったのかと質問されれば答えられないでしょう。 生き甲斐もそのようなものではないでしょうか。

  「好きだから好きなの」。 それだけで十分なのです。 そのほかに理由はいらないのです。 「これに生き甲斐を感じられるから、生きていける」。 生きる理由はこれだけで十分なのです。 自分が自信を持っていくことができるものでさえあれば、それでいいのだと思います。 それなのに現代社会は、理由をつけないと納得できないという病魔に冒されているものですから、理由のつけることのできないことに理由を見いだそうとするからおかしくなるのではないでしょうか。 自分で納得できたことには、あれこれと理由をつけないことです。

  このものさしは学問してもなかなか身に付くものではありません。 知識として覚えたことを経験を通して知恵とすることによってのみ、身につけることのできるものだと思います。 なんでもやってみましょう。 体で覚えましょう。 成功とか、失敗は二の次にして。

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