この道以外に道はないのか

 私たちは逆境に陥ると、ものの考え方が自然に消極的になり、自分では意識していなくてもものごとを全体的に、有機的に考える余裕がなくなってしまいます。 順調なときならいくつもの対応策(選択肢)を考えられるのに、逆境のときには選択肢が限られてきます。 さらに悪いことには、その選択肢が積極的なことよりも消極的なことになりやすいということです。 そして最後には「どうしたらよいか分からない」という、あきらめと失望と絶望の入り混じった考え方になってしまいがちです。 悪いときには悪いことが続くといわれますが、それにはこのような理由があるのではないでしょうか。 冷静に考えれば他の方法があったにもかかわらず、最悪の方法を選んでしまうことも決して珍しいことではありません。 「冷静に判断しろ」と言われても、冷静になれないのですから仕方のないことなのです。

  どう考えても出口が見つからないときは、開き直りの精神が必要だと思います。 「開き直り」と言うと悪い意味にとられることも多いのですが、「開き直り」には悪い意味だけがあるのではないのです。 どうにもならなくなったときに、「どうにでもなれ、どうとでもしてくれ」と開き直れるい人は強いのではないでしょうか。 ここで注意したいのは「開き直り」に似た言葉に「ふてくされる」と言う言葉がありますが、「開き直ること」と「ふてくされること」とは似て非なるものなのです。

  辞書を引くと

ひらきなおる  …  急にあらたまった態度をとること
ふてくされる  … 不満のため、なげやりな態度をとること
命令されてもなかなかやらなかったり、反抗すること

  開き直るときに重要なことは、開き直ったことによって生ずる結果に対して全責任を持つということです。 責任をとらないとすれば、それは「開き直り」ではなく、「ふてくされる」ことになります。 責任をとることを拒否するから、開き直れなくなるのです。 ただどうにもならない状況下で、開き直れる人と開き直れない人もいますが、ここではその原因を追及することは本題からはずれます。 開き直りのできる人は、健全な神経の持ち主と言えると思いますがいかがでしょうか。 開き直るべきときに開き直れない人が、神経を病んでいくのではないでしょうか。 若いときの私は、後者の例でした。 

  人間の心とは実に不思議なもので、開き直ることによって心が落ち着き、どんなことも受け入れられるようになり、そして解放されたような安堵感を味わえるようになるのです。 これは私の経験談ですが、顧客の応対でいくらお客様をさばいてもあとからあとからとお客様が行列をなしたときに、「えい、どうにでもなれ。 いくら頑張ってもお客様は減らないのだ」と考えると、不思議に心が落ち着いたものでした。 ことわざに「忙中閑あり」と言いますが、どんなに忙しい中でも心の持ちようによっては安堵感を味わえるものなのです。 これは理屈でも何でもなく、「そうなのだ」としか言いようのないことなのです。 

人生において理屈抜きで「そうなのだ」と納得できた人はしあわせになれる人であり、すべてを理屈で考えようとする人はしあわせに遠い存在ではないでしょうか。

  そうするといままでは考えられなかった方法が思いついたりして、ものごとは好転しはじめることが多いのです。 悩んでいたときにはひとつしかないように見えた道も、実は一本道ではなく、途中で幾本にも枝分かれしているということも見えてくるのです。 苦しいときには道はなかったり、あっても一本しかないように見えた道も、実は幾本もの分かれ道があったということが分かるのです。 開き直ることによって心に余裕ができて、その余裕がものの見方や考え方を変えてしまうのです。 このことからも言えるようにものは考えようで、どうにでもなる可能性のあるものだと言うことです。  逆境にあるときは考え方に柔軟性がないので、道はひとつしかないように見えるだけなのです。

 人生は結果的にはひとつの道しかなかったことになりますが、それはあくまでも結果論にすぎないということが重要ではないでしょうか。 自分の経験から言えば人生のその局面、局面においては選択肢はひとつだけということは少なかったと思います。 いくつかの可能性の中からある道を選び取って、その他の可能性を捨てたから結果的にひとつしかなかったとなるのではないでしょうか。 だから選択した道で失敗したときに後悔するのだと思います。 「あのときに、別の方法を選んでおけばよかった」と。 この世の中は自分の思い通りにはなりにくいという意味では、人生は不自由とも言えますが、その局面、局面において複数の選択肢があるという意味においては人生は自由があるのです。  自分には「選択」という決断をする機会があるのですから。 これが本当の自由の行使ではないでしょうか。 自由というのはそういうことなのではないでしょうか。 なんでも自分の思い通りになることは自由ではなくて、「勝手、気まま、したい放題」と言うのです。 自由とは不自由の中にこそ意味があるものではないでしょうか。 したい放題の中には、そもそも不自由がありませんから、必然的に自由もなくなってしまうのです。 だから人生は結果論として、「この生き方しかなかった」となるのです。

  はじめから決まり切った生き方などは存在しないのです。 そのときどきの決断の連続が、その人の人生を作り上げているのですから。 決断する時点で別な決断をしていれば人生は変わり、それでも過去を振り返ったときには「この生き方しかなかった」となるのです。 このことは大切なことです。 絶対に忘れてはいけません。

  前にも書いたと思いますが、過去のことをどんなに後悔してもどうにもならないし(分かっていても後悔するのが人間ですが…私も後悔することばかりです…矛盾していますね)、後悔すればするほど自分を責めることになり、行き着く先は人生がめちゃめちゃになるだけです。 人生を楽しくするためには、過去のことは過去のこととして肯定して生きて行くほかにないのです。 これが強い人、勇気のある人の要件の一つだと思います。

  「これが俺の人生さ。 俺にして上出来だ。」と、心の底から言えるようになりたいものです。 そのように言える人はしあわせものです。 こんな風に開き直れたら、どんなにしあわせかと思います。

  この意味からすれば、人生にはその局面、局面において複数の選択肢があるとしても、こと過去に関しては過去の事実を肯定して生きる以外に道はありません。

  私はよく「明める」と言う言葉を使うことがあります。 普通に言う「諦める」とは違うのです。 「諦める」とは断念することですが、私の言う「明らめる」とはものごとをはっきりさせるということです。 この「明らめる」は、「開き直り」と通じるものがあると思っています。

 もう一度書くと、人生には複数の選択肢があり、結果としてそのうちのひとつしか選択できないから、「自分には、この道しかなかったのだ」となってしまうのだと確信を持って言えるのです。

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