しあわせは日常生活を離れたところにあるのか

 私たちは、「しあわせ」というと遠くにあると思うのはなぜでしょうか。 メルヘンチックだからでしょうか。 それだけ現実の生活に、しあわせを感じられないということの裏返しなのでしょう。 現実を離れた、すなわち日々のあくせくとした生活を離れたところに、しあわせがあるのでしょうか。 しあわせとは、どんな状態なのでしょうか。 少なくても現実の生活が自分の思い通りにならないことを、しあわせな状態とは言いませんね。

  たしかに、我々の日常生活は、忙しく、不安や不満に満ちていることは事実だと思います。 

明日はリストラで職を失うかも知れない
給料が下がっているのに、ローンや教育費の負担が大きい
夫は仕事ばかりで、家庭のことはなにもしない
受験戦争に勝ち抜くのが辛い
子供の非行が心配だ
嫁と姑の関係がしっくりしない
会社では上司が自分に辛く当たる
恋人にいつ捨てられるか心配だ
老後が心配だ
健康に自信が持てない
だれも自分を理解してくれない
両親には「勉強しろ」とばかり言われて、気分転換する暇もない
あいつさえこんなことを言わなかったら、自分は失敗しなかったのに
あいてつに巡り会ったばかりに、こんなめに逢ってしまった

  と、現実の生活に対する不満を上げだすときりがなくなります。 こんな生活の中にしあわせがあるなんて、とても考えられなくなっても仕方のないことかも知れません。 

  でも現実を離れてどんなことが考えられるというのでしょうか。 我々には、この現実の生活しかないではありませんか。 想像の世界に生きているわけではないのですから。 現実が苦しいから、現実が辛いから、現実を信じたくないから、現実から逃避したいという気持ちは理解できますが、ではどこへ行けば現実から逃げられるというのでしょうか。 逃げてたどり着いたところも、ひとつの現実です。 どんなことをしても、どこへ行っても現実から逃げられないのです。 つらくても、現実の中にしあわせを見いだすしかないのです。 メーテルリンクの「青い鳥」の物語は、誰でも知っていると思います。 結局、幸せは身近にあったのです。 幸せは日常生活の中にしかないのです。 宗教に入信しても、現実を否定的に受け取るならばしあせにはなれっこないのです。 現実を捨てて宗教は成立しないのです。 現実の中にこそ、宗教も成立できるのです。 

  それともうひとつ、責任転嫁をしている限りはしあわせにはなれなと思います。 なぜなら、責任転嫁とは人を恨むことと同じだからです。 「あいつのせいで、あいつがいるから、自分はしあわせになれなかったのだ」と思っている限り、心が安らげないからです。 責任転嫁を乗り越えなければ、しあわせになれないのです。 これも大変難しいことなのですが。

  「ものは考えよう」と何度も書いてきましたが、考え方を変えるだけでもしあわせの少しは感じることができると思います。 現実の生活の中にしあわせがないのではなく、受け取る側に問題があるのではないでしょうか。 難しいことなのですが、そう思います。 難しいことだから、それを克服できたときにの喜びは大きいのです。 この件に関しては、「この世の中はすべてが相対的だ」を読んでください。

  本当にしあわせを感じることのできた人は、現実に戻ってはじめてしあわせの意味を理解できたように思います。 もう一つ思うことは、しあわせはなるものではなく、感じるものなのかも知れません。 だから大金持ちだからといってしあわせという訳でもなく、はた目から見れば逆境の中にあるように見える人でもしあわせな人もでてくるのだと思います。 しあわせは、外からでは分からないのです。 しあわせは現実をどう理解するかによって、大きく違ってくるのです。

  毎日の悩みや苦しみを克服できなければ、どこに行ってもしあわせにはなれないのだと思います。 そのためには「ものは考えよう」ということを、もう一度考え直してみることが大切だと思います。 「ものは考えよう」、これは決して現実からの逃避を意味するとは限らないのです。 現実が苦しくて、つらくてどうしようもなければ、現実に対する考え方を変えるしかないからです。

  もっと正確に言えば、「毎日の悩みや苦しみを克服できなければ」ではなくて、「毎日の悩みや苦しみへの対処の仕方が分からなければ」ということです。

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