本当にどうにもならないことには耐えられる

 かつてNHKのラジオ放送で、次のような話を聞いたことがあります。 何匹かの猿を二組に分けて(仮にA組とB組とします)檻に入れ、以下のような実験を行ったそうです。 猿の足元には電気の通る金属板を置いて、猿の足がその金属板に直接ふれるようにしました。 そして6時間毎に弱い電流を流し、二組の猿とも感電するようにしました。 A組の猿は自分たちでは電気を切ることができないように、B組の猿には電気を感じると自分たちで電気を切ることができるようにスイッチをつけました。

  はじめのうちは二組の猿とも電気が流されるとびっくりしていましたが、やがてB組の猿は感電すると電気を切ることを覚え、感電するたびに条件反射的に電気を切るようになったということです。 A組の猿は、電流が流れている間中は感電したままです。 この実験を続けていくと、最初に精神に異常を来したグループはA組だっだでしょうか、それともB組だったのでしょうか。 答えはB組だったそうです。 その学者の言うことには、A組の猿は自分たちではどうすることもできなかったので、感電することに順応(あきらめと言ってもいいでしょう)するしかなかったのですが、B組の猿たちは自分たちで(この「自分たち」と言うことが重要だと思うのです)スイッチを切ることによって感電から逃れられることを知ってからは、逆にいつ電気が流されるかと心配するようになり、緊張を持続したために精神に異常を来したものと思われると言っておりました。 

  これは猿の世界のことですが、私たちにも同じことが言えると思うのです。 どんなに考えてもやり方が一つしかなければ、あるいはやり方が一つもなければ、その結果の如何を問わず我々は比較的受け入れることができるのです。 理由は、「ほかには方法がない」というもっとも簡単な理由しかないのです。 難しい理由はなにもないのです。 悩んでも、悔やんでもどうにもならないのです。 だから人間はどうにもならないことには、あきらめにも似た気持ちで比較的順応できるのだと思います。

   前にも書いたのですが、選択肢(方法)が二つ以上あると状況はまったく違ってくるのです。 もし失敗すると別の方法を採ればよかったと思って後悔するものです。 その後悔の度合いは人によって異なりますが。 自分が選択権を握っていることについては、失敗するとあきらめがつきにくく、あるいは一生くよくよすることにもなりかねないのです。 この意味で人生において本当にどうにもならないことは、あきらめがつきやすいのです。 このように考える私がおかしいのでしょうか。 私の経験上失恋の痛手などは、その好例だと思いますがいかがでしょうか。 あのときなんで、心にもなくあんなことを言ってしまったのだろうとか、なんであんなことをしてしまったのだろうと。  私にも人並みとは行かないまでも、それくらいの経験はあるのですよ。

  私たちがどうにもならないことには耐えられないと思うのは、現実にはどうにかなることを、どうにもならないと決め込んでしまうからではないでしょうか。 よく考えればほかに方法があったのに、ないと思い込んでしまったからではないでしょうか。 逆に本当にどうにもならないことに耐えられるのは、そのほかには死ぬしかない、絶対に避けられない(たとえば「死」)と心の底で分かっているからではないでしょうか。

  ほとんどの場合選択肢が複数あるということは、なにを意味するのでしょうか。 相対的な世界で我々は常に決断を求められているのです。 意識的にせよ、無意識的にせよ。  決断を求められるということは、経験することです。 決断を求められるということは、勇気を必要とするということです。 このことによって生き甲斐を見つけいていくのではないでしょうか。 選択肢がなければ、すなわち方法がたったひとつしかないとすれば、生きることに決断の必要がなくなり、人生を考えることもなくなるといま思いました。 それでは生きていることの意味がなくなってしまうからです。  
 
なぜ、人生にはくる意味やなやみというものがなくならないのかといえば、生きている意味を感じ取るためだと思わざるを得ません。 人生にいいことしか起こらないのであれば、それはそれで人生のよろこびがなくなってしまうのです。 よろこびを感じる(こけが人生の意味だと思います)たにめは、必ずよろことびと対極にあるものが必要になるのです。 そう、人生はすべてが相対的(なにかとなにかを比較する)
なのです。

 このことは、なによりも大切なことなのです。 このことを理解していれば、現実に起きる様々なことの意味を見いだせ、つらく、苦しくても生きていくことができるのだと信じています。

  人生を袋小路に追い込んでいくものは、自分の考え方や方法ではどうにもならないことではなく、自分の考え方や方法でやり方を変えられることではないでしょうか。 自分の選択したこと、自分の決断したのことの結果が、直接に自分に跳ね返ってくることが分かるからです。 どうなもならないことには、自分で影響を与えようがないのであまり悩むことがないからです。 自分で自分を思い通りにできなかった後悔が、自分を追い込んでいくのではないでしょうか。 

  開き直ったときは、もうなにも考えないで邁進するので、結果については心配することはないのです。 結果について心配しないのは、自分ではこのほかにはやり方がないと決めたからです。 要するに選択肢がなくなった同じことなのです。 でも本当は選択肢がないのではなくて、自分の意志で選択肢をなくしてしまったのです。 ひらきなおりとは「自分で自分の選択肢をなくしてしまうこと」だと思うのです。 どうにもならないことは受け入れざるを得ないと、無意識のうちで人間は分かっているのです。 そのことを意識的に理解することが必要だと思うのです。

  生きている限りは、自分ではどうすることもできないことが多すぎます。 その自分ではどうすることもできないこと、あるいは一見どうすることもできないようなことをどう考えるのかこそに、人生のすべてがかかってくるのだと思います。

  本当はどうにかなると分かっていることを、どうにもできないから苦しむのだと思います。 どうにかなるはずなのに、どうにもできないから、無力感と挫折感に苦しむのではないでしょうか。

なにもしないと言うことは、なにもしないといいうことを選んでいるのです。 これは重要なことです。

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