まじめだけでは苦労が多い
まじめ | … | まごころのこもった態度 |
誠実で飾りのないこと | ||
本気であること。 冗談でないこと |
「世の中、まじめに生きてさえいればきっと報われるとか、きっとよいことがある」と言いますが果たしてそうでしょうか。 この世の中は「まじめな人が損をする」というのが、現実には圧倒的に多いと思います。 本当に残念なことなのですが。 まじめな人がなぜ損をしたり、馬鹿を見るのかが大きな問題なのです。 私は、世の中の裏と表を知り尽くした人がまじめに生きることには、なんら異議を挟みません。 このような人は、人生の苦労を十分にしてきているので、相手にだまされても、利用されてもそれは承知の上でまじめに生きているのですから、いまさら挫折することもないからです。 自分で納得して真面目に生きることは、とってもよいことだと思います。 そこでは損得が、大きな問題にはならないからです。 ここで問題にしたいのは、世の中の汚れをあまり知らない純粋な人(そんな人いましたっけ)がまじめに生きて、苦労ばかりすることを問題にしたいのです。 純粋な人はまじめに生きて報われないと、自信を失ったり、人を信じられなくなったり、自分を嫌いになったり、相手を恨んだり、社会を恨んだりして、自らの人生を無意味なものにする危険性があるからです。 純粋であればあるほど、この危険性は大きいと思っています。
よく「○○さんは、まじめだから…」と言う言葉を耳にしますが、言われている当人は心の底から納得してまじめに生きているのでしょうか。 ここで言う「まじめ」には、上記の意味のほかに
人に指示されたことは、指示通りにする | |
人を疑うことをしない | |
融通が利かない | |
反論しない (心の弱さから反論できないとしたら問題なのです) | |
追従的である (いわゆる素直な人) | |
妥協したり、迎合ばかりしている | |
ものごとをあまり考えないで、従来のやり方しかできない |
大変意地の悪い見方ですが「まじめ」という言葉の中には、このような意味も含まれていると感じるのは私だけでしょうか。 ここに「まじめな人が馬鹿を見る」原因があると思っています。
「まじめな人がなぜ馬鹿をみるか、まじめな人がなぜ損をするのか、まじめな人がなぜ報われないのか」を、考えてみたいと思います。 まず考えなくてはならないことは、「まじめな人」とはどんな人を言うかと言うことです。 まじめな人とは、
① 人を疑うことを知らない人
② ひとつのことに打ち込む人
③ いつも本気で、冗談の分からない人
④ 言われたことは、言われたとおりに遂行する人
⑤ 融通の利かない人
⑥ いつも妥協ばかりして、反論できない迎合的な人 (意外と思われるかもしれませんが)
⑦ いつも周囲の評判を気にして、相手からよく思われようとしている人
⑧ 社会の常識を知らないので、人の言いなりになる人
⑨ うそを言わない人 (誠実な人、約束を守る人)
⑩ 創意工夫がなく、いつも同じやり方しかできない人
⑪ めりはりもなく、仕事をしている人 (時間をかければよいと思っている人)
⑫ なんでも一人で抱え込む人
⑬ 状況判断の悪い人 (このような人も状況が分からずに、一つのことに打ち込むこともあるのでまじめに見えることもある)
⑭ 信念を持ってことに当たる人
⑮ 自らの意志で積極的に行動する人
と、こんなところを考えてみました。 ①から⑬までは、どちらかと言えば悪い意味での「まじめな人」であり、⑭と⑮はいい意味での「まじめな人」です。 いい意味でのまじめな人は問題にすることではありません。 問題は悪い意味でのまじめな人が、馬鹿を見ることが多くなるのではないでしょうか。 その理由を説明すると、
①について
※ この世の中は人をだましても、自分の利益を謀る人がいっぱいいる
※ だから、だまされても当然とも言える
②について
※ 一つのことに熱中すると全体的なことが分かりにくくなり、常識がなくなりがちである
③について
※ 自分の心を相手にすぐに悟られて、相手の利益のために利用される
④について
※ 言われたことを鵜呑みにしていては、だまされても文句も言えない (①と同じこと)
⑤について
※ 状況や人の心変わりに、臨機応変に対応できない
⑥について
※ これについては、ここをクリックしてください
⑦について
※ これについては、ここをクリックしてください
⑧について
※ 常識のないことを相手の知られたくないので、相手の言いなりになる
※ 常識にないことを悪事の手伝いに利用される
⑨について
※ ③と同じことです
⑩について
※ 遅くまで仕事をしている人がまじめな人との思いこみがある
・ 時代はそんな古い常識の通用する時代ではない
⑪について
※ ⑩と同じ
⑫について
※ ⑩と同じ
⑬について
※ ⑩と同じ
このように見てくると、「まじめ」にも二種類の「まじめさ」があるように思えるのです。 一つは、自信のある人のまじめさであり、ひとつは自信のない人のまじめさだと思うのです。 自信のある人、自分自身を信頼できる人のまじめさについては、なにも言うことはありません。 自信のない人のまじめさがくせ者なのです。 そして自信のない人は、まじめということについて勘違いしていることが多いように思うのです。
このように書くと、大変酷な言い方になってしまうのですが自分に自信を持てない人、すなわち自分自身を信ずることのできない人が、自分はまじめだと勘違いすることが不幸の始まりではないでしょうか。 自分はなにも言うないから、ただ相手に黙々と従っていることを、まじめと勘違いすることも多いのではないでしょうか。 相手から悪く思われたくない、相手からよく思われたい、能力のない人間ではなく能力のある人間だと思われたい、自分は信頼できない人間ではなく信頼できる人間だと思われたい、貧乏ではなくお金持ちだと思われたい、など相手の評価を気にした結果がまじめということではないでしょうか。 だから相手にその心の底を見透かされて利用されるのではないでしょうか。 これが損をしたり、馬鹿を見ることにつながるのではないでしょうか。
まじめな人が損をすることが多かったり、馬鹿を見ることが多かったりするのは、このような理由からではないでしょうか。 そんなように思えてならないのです。 私はまじめなことを悪いと言ってはいません。 まじめになろうとした動機が何かと言っているのです。 本当の自分の表現の結果としてまじめならよいのですが、他人から評価を得るためにまじめを装っていれば(自分では気がついていないかも知れないのですが)、心が疲れてくるのではないでしょうか。
これからの社会で通用する「まじめ」は、今までのような「ばかまじめ」や「くそまじめ」では通用しなくなると思います。 「ばかまじめ」や「くそまじめ」は、言われたことだけをやっていればいいというニュアンス(やる気がなくても言われたことだけをしていればいい)がありますが、これからの「まじめさ」はバイタリティとめりはりのあるまじめさでなければならないと思います。 いまや指示待ち人間は必要ではなくなったのです。 自分から積極的に行動しなければ、いくら言われたことを確実にこなしていても「まじめな人」とは言われなくなるでしょう。 と言うより、まじめな人間だけでは世の中を生きてはいけない時代に入ったのではないでしょうか。
一昔前にの「まじめ」の定義は、「遅刻しない」ことと「休まない」ことでしたが、これからはこのようなことは「まじめ」の枝葉末節のささいなことと認識されることでしょう。 遅刻は感心しませんが、休まないことは、むしろ仕事ができないから仕事がたまって休めないと言うことになるはずです。 残業時間が他の人より極端に多い人も、能力のない人と見なされるでしょう。 それだけに仕事に対しての能力を磨くことが、なによりも重要なこととなるのです。 これからは自己管理と自己啓発のできない人は、落ちこぼれていくほかはなくなるでしょう。
まじめに働いてさえいれば給料のもらえる時代は、もう終わったのです。 成果が上がらなければ給料が上がらないばかりでなく、会社にも勤め続けていられなくなる時代がきてしまったのです。
メリハリのある生活のできる人だけが生き残れる、そんな社会になろうとしているように思います。 いいとか、悪とかの価値判断は抜きにして。
だからこそ、生きていくテクニックと知恵がますます必要になってくるのです。 もうテクニックと知識だけでは生き残れないのです。 それに知恵がプラスされなければ。