人生に、はじめから決まり切った道などはない

  多くの場合、我々は他の人とは違う生き方(個性的な生き方)を探しながらも、社会の常識という壁に阻まれたりして結局社会の価値判断基準を、自分の価値判断基準として受け入れてしまっていると思います。 他の人とは違う生き方を模索しながら、なぜ他の人と同じ生き方をするようになるかについて簡単に触れておきます。 その理由は自分の生き方に自信が持てないから、一般常識的な生き方をしてしまうと言えます。 自信がないから社会に追随した生き方になるのか、社会に追随して生きているから自信が持てないのかは、ものごとの裏と表の関係だと言えます。

  自分は自分なりの生き方しかできないのです。 たとえどんな生き方であっても、それは自分なりの生き方なのです。 自分にしかできない生き方、自分にだけ合った生き方があるはずなのに、それを探すことを放棄して他の人の生き方(社会の常識など)を自分の生き方にしてしまうから、生きることがしっくり来なくなるのではないでしょうか。 「自分を頼らなければ生きていけない理由」にも書きましたが、自分の体型には似合わない他人のお下がりの服(常識といわれるもの)や既製服(他のひとの意見を鵜呑みにする)を身につけるから、どことなくおかしくなるのです。 自分の生き方は、自分でオーダーメイドしなければならないのです。 自分で自分に注文を出して、自分で自分にあった洋服をつくらなければならないのです。 それが、生きることがしっくりすることなのです。 自分の生き方は自分で探さなければならないのです。 ないものを探すのだから、探してもなかなか見つからないので、生き方は苦しくなって当然だと思います。

  「学問に王道なし」とは有名な言葉ですが、「人生にも王道はない」のです。 それなのにいまの社会では安直に親の決めた道だけを歩いたり、他人に言われたことを疑いもなく受け入れて歩いているから、すなわち既製服を着て歩いているから、自分の本当の生き方が分からなくなっているのではないでしょうか。 自分なりの生き方を探すことはつらく、苦しいことなのですが、このことを避けて生きようとするから生きることがますます苦しくなってしまうのです。

  「人生に決まり切った生き方はない」ということは、自分の生き方が社会常識と少々ずれていても心配する必要がないということです。 あまりにもずれているのは問題があります。 人には人それぞれに、生き方や考え方があるのだということを肌で理解できれば、自分の考え方や生き方が、周囲の人とまったく違っていても気にする必要がないのです。 必要がないというより、気にならなくなるのです。 頭で理解するのではなくて、体で理解するということがなによりも大事なことです。 ただ意識的に他人に迷惑をかけるような生き方は論外ですが。 

  自分の生き方は自分で作り出す以外に、自分で納得できる生き方はないと思います。 世間体を気にしたり、八方美人になったり、責任転嫁ばかりしていては、決して心の底から人生を楽しむことはできないと思います。 

  自分に合った服装は自分の体型や好みを考えて、自分にあった寸法に裁断しなくてはならないのです。 生きることも同じことではないでしょうか。 自分に合った、自分で納得できる生き方をすることが必要だと思います。 自分は他の人とはどこか違うといって、悩む必要はないのです。 そのようなことで悩むことは、意識的に自分の道を歩んでいる証拠かも知れません。 自分らしく生きることはつらく、苦しく、人一倍の努力が求められるのです。 安直に自分らしく生きているとすれば、その生き方は偽物だと断言できます。 損な生き方は自分らしく生きていると思っても、実は他人の敷いたレールの上を走っている生き方でしょう。 なにごとも疑問を持つことはいいことです。 それは自分が意識的に生きているなによりの証拠だからです。

  人生は方程式のようなものではなくて、応用問題のようなものです。 なぜなら一人ひとり与えられている条件が違うからです。 その条件を無視して人生を考えるから、よけい苦しくなるのだと思います。 自分に与えられている条件はなになのか、それを理解することが重要だと思います。 生きることは科学でもなく、理屈でもないのです。 他の人の迷惑にならなくて、自分で納得のできる生き方ができれば、それでいいのです。 たとえその生き方が他の人と同じであっても、違っていても。 それは結果論なのですから。 

  生きることに前もって与えられた生き方があると思うから、よけいなことで悩むのではないでしょうか。 社会の常識を疑ってみておかしいと思えば、自分なりの生き方を考えればいいのです。 ただし、自分なりの生き方をする、自分らしく生きるということは大変なことだということだけは、肝に銘じておく必要があります。 なぜなら新しい道を自分で切り開かなければならないからです。 人跡未踏のジャングルに踏み込んでいくようなものです。 行く手になにが待ち受けているか分からないからです。 だから、多くの人は他人の敷いたレールのうえを歩もうとするのです。 他の人と同じ生き方をしていれば、安心感があり、よけいな心配をしなくて済むからです。 でも生き甲斐を感じられるかどうかは、別の問題のはずです。 生き甲斐が感じられることと、不安のないこと別だと思います。 不安を抱えながらでも、生き甲斐は感じことができると思います。 その不安がなになのかが重要なのです。 世間体を気にするための不安なのか、社会に立ち向かうための不安なのか、その違いは決定的だとさえ思います。

  自分の人生は自分で決めなければ、生きる満足感は味わえないのです。 苦労が多いでしょうが、得られる満足感も大きいのです。 苦労が多いからこそ得られるよろこびも大きいのです。 それが証拠に自分が苦労して手に入れたものは、たとえ安物であっても大切にするではありませんか。

 人生に決まり切った道などはないということは、自分で道を探し、そして見つけた道を毎日修理しながら生きることです。 ほかの所で触れますが、前もって決まっている人生というものはないのです。 過去を振り返ったとき、「やっぱりこの道しかなかったのだ」ということになるだけの話です。

 人生に決まり切った道があるなら、人生はこんなにつらく、苦しいものにはならないでしょうに。 そしたまた、神や仏も必要ないでしょうに。 ない道を探して、自分で道を作らなければならないから、人生はつらく、苦しいものになってしまうのだと確信します。

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