ものは考えよう
「ものは考えよう」、この言葉くらい安直に自分に都合のいいように使われる言葉も少ないのではないでしょうか。 (元々が自分に都合のいいように考えることを指していますから、仕方のないことですが。 だから「ものは考えよう」というと、あまりよい印象を与えないのだと思うのです。 しかしよく考えてみると、この言葉には非常に含蓄のある重みがあると思っています。 自分の責任逃れや現実から逃げるために使われるのは、ここでは論外です。
生き方がつらくて、苦しくてどうにもならなくなるということは、いままでの考え方や方法では出口が見いだせないということです。 過去にこだわってしまうから、先が見えなくなるのです。 これについては、もう書きました。 いつまでも人を恨んでいるから、どうにもならなくなるのです。 これについても書きました。 こんなときはどうすればいいのでしょうか。 考え方を変えるしかないのです。 相手の考え方を変えることができなければ、自分の考え方を変えるしかないのです。 自分の考え方が変われば、もしかしたら相手の考え方が変わるかも知れないのです。
このようなとき、自分の考え方や生き方を変えるのは、意志が弱いといって軽蔑されることも多いのですが、果たしてそうでしょうか。 自分がどうにもならないとき、自分の生き方を変えることは「意志が弱いから」というのでしょうか。 逆に、勇気ある行動だと思います。
自分がつきあいたくない人にも、思いやりを持って接することができれば、相手の心が変わる可能性は大きいのです。 このことは自信を持って言えます。 しかし多くの場合は自分が変わろうとしないで、相手だけを変えようとするから人間関係が複雑になってしまうのです。 人間関係をスムーズにする魔法の薬は、「思いやり」なのです。 自分の好きな人には思いやりを持つことは比較的簡単なことですが、憎らしい人に思いやりを持つことは至難の業ですね。 私も、このことで何度か挫折していますから、大きなことを言えた義理ではないのですが。
どうにもならないときは、自分を変えるしかないのです。 そしてこのことは自分が弱いということとは、必ずしも同じことではないのです。 どうにもならない苦しみの人生を送るしかないなら、自分の考え方を変えてもっと生き甲斐のある生き方を探すしかないのです。 むしろ弱い人は周囲の目を気にして、自分を変えることはできないと思います。
どうにもならなくなったら、自分の考え方を変えるように努力してみませんか。 ものの見方や考え方が変わると、相手や社会がいままでとは全く違ったものに見えてくるはずです。 これは経験したことのない人には、分からないことです。 相手や社会がなにも変わっていないのに、自分の考え方や生き方が変わっただけで、世の中のことは一変してしまうのです。 嘘ではありませんよ。 どこかにも書いたと思いますが失恋すれば、すべてのことにむなしさを感じてしまいます。 でも相手は変わっていないし、社会も変わっていないのです。 変わったのは自分の心だけなのです。 昨日までは光り輝いていた太陽も、今日はどす黒く見えてしまうのです。
自分が変わることができれば、そこにはいままでは想像もできなかったような世界があるはずです。 必ず想像もできなかった世界(現実)が待っているはずです。
ものの考え方を変えるには、相当の勇気を必要とします。 なにしろいままでの自分を捨てなければならないからです。 ここにジレンマがあります。 「考え方を変えれば、人生も変わるかも知れない。 しかしいままでの自分を捨てられない。」 この壁を乗り越えたところにだけ、生きがいはあるのだと信じています。 自分の考え方を変えないで、新たな生き方をしようとすること事態が無理なのです。 新たな生き方をするには、古い自分を捨てる覚悟が必要なのです。
どうにもならなくなったら、自分の生き方や考え方を反省することで、新しい自分を見つけることができる可能性は高いと思います。