ものごとを結果論で考えれば、なにもできなくなって当たり前

 「だから、言っただじゃないか」、「それみたことか」、「やっぱりな」、「やらなければよかったのに」などと言われることがあると思います。  なにやったとき、結果論で言われることが多い言葉ですね。

 このように、ものごとを結果論だけで評価する人が多いのも事実です。 そして、多くの場合そのような人は、結果論でものごとを言うことで自分に優越感を感じていることも多いように見受けられます。 そのような人の多くは、ものごとを積極的にとらえているでしょうか、それとも……。

 現実には、あることが成功するという保証はないのです。 失敗するという保証もない代わりに、成功するという保証もないのです。 我々にできることは、成功する確率を高くし、失敗する確率を低くすることだけなのです。 こうまで言ってしまうと、なにごとにも価値がないようにとらえられるかも知れませんが、それが厳然たる事実だと思います。

 なにごとも「やってみなければ分からない」のです。 未だやりもしないうちから結果だけを考えてしまえば、恐ろしくて、恥ずかしくて何もできなくなるのは自然な姿です。 結果論で判断したら、絶対に間違いはないのです。 なにしろ、結論がすでにでているからです。 既に結果が出ていることを持ち出して、どうのこうのと言っても、それがなんの役に立つというのでしょうか。 よりよい解決策を求めて結果論をどうことう言うのは構いませんが、ただ結果だけで相手を責めても、それがなんの役に立つのでしょうか。

 結果論を振り回す人の多くは、よりよい方法を求めて共に解決しようとするのではなく、相手を非難するために結果論を振り回しているように思えてならないのです。 本当に思いやりがあるなら、結果は結果として受け止め、そこからさらに進んでよりよい方法を話し合うのではないでしょうか。 結果論には間違いがないのですから、話す方としては優越感を味わうことができるのです。

 このことから言えることの一つは、結果論を振り回す人の多くは、自信のない人が多かったり、劣等感に押しつぶされている人が多いのではないかと言うことです。 このような見方で、結果論を振り回す人を見直せばなにか新しい発見があるのではないでしょうか。

 大変、意地の悪いものの見方になりましたが、なにか参考になればと思います。

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