自分は他の人より劣っているわけではない

  人間の普遍的な性格の一つとして、「ないものねだり」ということをあげることができると思います。 自分の持っているものにはあまり興味を示さないくせに、ないものに必要以上の興味を示し、そして欲しがるという悪い癖です。 人間には不必要なものでも、所有していれば満足する、あるいは他の人が持っているものを自分も持っていれば安心できるという習性があるのです。 自分にとって満足度が高ければ、価値があるとする考え方です。 満足度と利用価値は違うのです。 本当の価値とは、利用してこそでてくるものだと思うのですが。 前にも書いたように物知り博士になっても、その知識を利用しなければなんにもならないのです。 でも世の中には、ものを知っていることこそ価値があると思っている人もたくさんいるのです。 知ることが悪いわけではありません、念のため。

  悪いことには、自分の持っているものの価値はあまりないように思え、自分が持っていなくて他の人が持っているものには価値があるように思えることも多いのです。 このことはものについてだけでなく、精神的なことについても言えます。 お互いに同じ人間なので、よく考えてみれば相違はあまりないのですが、実体以上に相違があるように見えるから不思議です。 私の経験から言えば

学生時代に、こんな問題が解けないのは自分だけだと思いこみ、恥ずかしくて誰にも(先生にさえ)質問できない。
       ・ なぜならこんな簡単なことが分からないかと思われることが怖いから。
先生に「分からない人は手を挙げなさい」と言われると、必ず教室を見渡してから手を挙げる
       ・ 誰も手を挙げていなければ・自分も手を挙げない
他の人の意見はすばらしいことに思え、自分の意見は恥ずかしくて言えなくなる
自分の容姿に自信がもてず、自分には好きな女性に声をかける価値もないと思う
        ・ 本当は価値がないのではなく、自分に自信を持てなかっただけでした
私の家は貧乏でしたので、お金に余裕のある家の子がうらやましかった
自信たっぷりに振る舞う人がうらやましかった

  例を挙げ出すときりがなくなるのでこの辺で止めますが、自分に自信がなかったり、自分では意識しなくても劣等感にさいなまれていると、自分を責めて自分は生きている価値もない人間だと思いこんでしまうのです。 若いときに「優劣と相違」の違いを認識することはむずかしいことですが、親は子供に「他人との相違は優劣ではなくて、たんに他の人とは違うのだ」ということを、徹底的に教え込むことが必要だと思います。 自分が他の人と違うことは「相違」であって、「優劣」ではないのです。 個人個人を同じ項目で比較すれば違っていて当然なのですが、そのことを他の人との比較や優劣によって考えようとするから様々の問題を引き起こし、人生を狂わせたり消極的な生き方をさせてしまうのです。 苦しい生き方の原因の一つは、こんなところにもあると思います。

  お互いに得意なこともあれば、不得意なこともあるのです。 ある項目では劣っていても、別のことでは優れていることもあるはずです。

  勉強はできなくても、スポーツが得意かも知れません。 仕事上ではデスクワークはだめでも、営業が得意かも知れません。

  個性の相違はたんなる相違であって、それを単純に優劣で判断すべきことではないのです。 あの人と自分は違う。 ただそれだけなのです。 そして、それがあたりまえだと思います。 あの人は優れていて、自分が劣っているわけではないのです。 これだけのことを納得することが、非常にむずかしいことなのです。  親は子供に個性的な生き方を望みながら、その個性を優劣で判断されたら子供はどうすればいいのでしょうか。 だからこそ現代社会では個性的に生きるということは、みんなが同じような生き方をすることに結果的になるのだと思います。 優劣で判断するからです。 でも優劣で判断して、自分の子供がほかの子供より優れていれば、笑いが止まりませんよね。 ただし、その逆のことも考えてみて欲しいと思います。 一般的な社会の価値判断に従って個性を考えれば、みんな同じようにならざるを得なくなるのは当然すぎるくらい当然なことなのです。 どんな人にも他の人より優れている点もあれば、劣っている点もあるのです。 あるひとつのことを取り上げてみれば、自分は他の人よりも劣っている点もあれば、優れている点もあるのです。 それは優劣で比較することはできますが、人格はたんに一つのことを抜き出して判断してはならないということです。 人間を判断するときはトータルとしての人格を見なければならないということです。 

  我々が犯す一番の誤りは、一つのことを比較して自分は劣っているから、トータルとしての人間も劣っていると考えることではないでしょうか。 トータルとして人間を見れば、他の人より劣っているところもあれば、優れているところもあるということに気がつくはずです。  誰でも自分以外の人には持つことのできない長所を持っているのです。 これに気がつくことが難しいのですが。 こう考えれば一人ひとりはかけがえのない存在であり、他の人で自分を代用することができないことに気がつくと思います。 

  こう考えてみると、自分は他の人よりも劣っているわけでもなく、逆に優れているわけでもなく、みんなが同じような悩みや苦しみを抱えて生きているごく普通の人間だということが分かり、ここから自分に自信がもて積極的な生き方に転ずることができるのではないでしょうか。 誰の言った言葉かは忘れましたが、「彼も人なり、我も人なり」という言葉があります。 この言葉はどんなに偉くて立派な人でも、社会的に取るに足らないと思われるような人でもおなじ人間だということです。 そしてひとりひとりが重要なのだということです。 苦しんでいるのは自分だけではないのです。 他の人も誰にも言えずに悩み苦しんでいるのです。 偉い人は偉い人なりに、一般の人はそれなりに悩みや苦しみを抱えているのです。 もしかしたら、他の人の悩みや苦しみの方が自分のそれらよりもずっと深刻かも知れないのです。 ただ様々の理由から、それらの悩みや苦しみを表に出していないだけなのです。 悩みや苦しみのない人がいれば、その人は自分の人生をまじめには考えていない不幸な人と言わざるを得ません。

  「人間は自分に与えられた不幸ゆえにしあわせになり、そのしあわせのゆえに他の人をもしあわせにできるのだ」(ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」より)という言葉を目にしたときは、はっとさせられると同時に目からうろこが落ちる思いがしました。 ここにも「この世の中はすべてが相対的だ」という考え方があるように思われます。

  良くも悪くも「自分だけは……」という考え方は、もう止めましょう。 「自分も……」と考えてみては、どうでしょうか。 そうしたら、人生にどんなことが起きてくるか楽しみです。

  他の人との相違を優劣で考えるのか、単なる相違、違いと考えるのかは、人生に決定的な影響を与えるのではないでしょうか。 どのように考えるかは、ひとりひとりの自由であり、その考え方をだれかに強制されるものでもないと思います。 どっちにするかは自分で決めることです。

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