なんのために耐えて生きるのか

忍従 ……じっと我慢して境遇のままに服従すること
忍耐 ……たえしのぶこと(目的達成のために)

  生きることは忍耐の連続と言えるかも知れません。 自分の欲望のままに生きることが、最高の生きがいだ、最高のしあわせだと思っている人も多いでしょうが、私には自分の欲望のままに生きることはどこかで行き詰まりを来すと思います。 いつどんな行き詰まりになるのかは、その人そのときになってみないと分かりませんが。

  「人生は自分の思い通りにはならない、それが苦だ。」とお釈迦様は言っていますが(私が教典を直接読んだわけではないので、正確に言えば「言っているそうです」が)、自分の経験を振り返ってみても、現在の自分を見渡してもその通りだと感じずにはいられません。 生まれたときから死ぬまで、人生は自分の思い通りにはならないものだと言えます。

  このページを書くヒントになったことは、私のホームページへの書き込みにありました。 そこには「耐えて生きることにはなんの意味もなかった」と書いてありました。 「耐える」という言葉は二つに分けて考えないと、生きる意味が分からなくなってしまうと考えたからです。 冒頭にも書いているように、「耐える」ことには「忍従」と「忍耐」とがあると考えたからです。 意味は上記の通りですから、分かってもらえるのではないでしょうか。

  私たちは「忍従」を「忍耐」と同じことと思いこんでいることが、多くはないでしょうか。

 忍従とは、次のようなことではないでしょうか。

弱い自分を守るだけの生き方
本当の自分を知られたくないための生き方 (八方美人)
言いたいこと(反論など)が言えないので、ただ我慢するだけの生き方
相手に悪く思われたくないために、相手のいやがることはしない生き方
現状を変える勇気が持てなくて、ただ周囲や時代に流された生き方をする
自分を変える努力をしないで、ただ生きているだけ

 と、このような生き方を「忍耐」と勘違いするから、生きることがますますつらくなるのではないでしょうか。

  自分が変わるため、強くなるために耐えるのなら、そのような忍耐はできるのだと思います。 なぜなら、そこには目標があるからです。 忍従には目標もなければ、なにもない。 ただ、ただ、耐えているだけなのです。 だから耐えることができなくなるのだと思います。

  ただ耐えるだけの生き方(忍従)の中に、生きる意味を見いだそうとしても見つからなくて当然ではないでしょうか。 忍従には、もともと生きる意味はないからです。 生きることに耐えきれなくなるとは、こういうことを言うのではないでしょうか。 希望や目標のないところには、忍耐さえもないのだと思います。

 「人間は意味のないことには耐えられない」と言ったのは、フランスの哲学者のサルトルだったでしょうか。  (まったく自信はないのですが。) 意味のない忍耐(忍従)をしようとするから、耐えられなくなるのです。 これに対して自分をよりよくするため、現状を打破するため、自分を強くするためにするの忍耐であれば、少々の苦難もなんとか乗り越えられるのではないでしょうか。 そこには自分を変えられる、変えなければならないと言う目標があるからです。 もちろんそのような努力の最中にも、幾度となく挫折感を味わうことになるとは思いますが。  

  自分はいまなんのために我慢しているのか、なんのために苦しんでいるのか、なんのために耐えているのか、そのことを知る必要があると思います。 忍従なのか、忍耐なのか。 忍従のための忍耐であるなら、そこには生きる意味は見つからないはずです。 意味を探せば探すほど見つからなくなって、自信をますます喪失するだけです。

 私が最近思うことの中に「我慢と忍耐」ということがあります。 普通は同じ意味で使われていますが、私には大部意味が違うように思えるのです。

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