当てにされても信頼されない人

  当てにされても信頼されていないのに、信頼されていると勘違いすることはないでしょうか。 当てにされることと信頼されることは、同じではないかと反論されそうですが。 当てにされるということは、なにかの目的のために役に立つ(利用される)ということではないでしょうか。 この場合の目的には精神的なこともあるだろうし、経済的な目的もあるでしょう。 信頼するということは、なんらの目的なしにその人を信じるということではないでしょうか。 当てにするということは、目的なしに成り立たないと思うのです。 多くの場合は経済的な目的が多いと思います。 経済的目的のために役に立つから当てにする、役に立たなくなれば必要はなくなるのです。

  自分は信頼されているという確信があれば、とくに信頼されることを求める必要はどこにもないからです。 自分は信頼されているという確信が持てないから、信頼されることを求めざるを得ないのではないでしょうか。 八方美人になるというようなこと。

  要するに当てにするとは打算が働くことが多く、信頼することには打算の入り込む余地が少ないように思うのです。 私の独断ですが。

  人格的には信頼されないと分かっている人が、他人の信頼を得るために相手に経済的利益を与えて、相手の信頼を得ようとすることがあります。 自分は信頼されたと思うかも知れませんが、信頼されたのではなく当てにされただけではないでしょうか。 「あいつに従ったふりをしていれば、得をする」と。 また八方美人になることによって他人の信頼を得ようとする人もいますが、これもとんでもない間違いです。 八方美人は利用されるだけ利用されて、役に立たなくなれば真っ先に捨てられる運命にあるのです。 八方美人が信頼されることはないのですから。 

  当てにされているだけなのを信頼されていると勘違いするから、他人を恨んだりしてしまうのです。 相手は最初からあなたのことは、ちっとも信頼していなかったのです。 あなたが思い違いをしたのです。 信頼されようとすればするほど卑屈になり、信頼を失う結果になるでしょう。 信頼は求めて得られるものではなく、自然に得られるものです。 求めて得られるものは、当てにされることだけです。 多くの場合当てにされることは、金の切れ目とともに失われがちです。

  改めて問うのもおかしいのですが、信頼を積極的に求める人の心理とはどのようなものでしょうか。 私は自分に自信を持てない人が求めるような気がしてなりません。 他人から信頼されることで、自信のなさから来る不安をうち消そうとしているのではないでしょうか。 自分自身を信頼している人や自信のある人は、他人の評価はあまり関係がないのです。 なぜなら、いざというときに臨機応変な行動がとれるからです。 世の中には信頼されようとして、策を弄する人が多すぎます。 かえって墓穴を掘る可能性が高くなるだけなのに。 

  自分は信頼されているのか、それとも当てにされているだけなのかをじっくりと考えてみる必要があります。 そのことを見極めることができれば、いまつきあっている人たちは自分にとってだれが本当に必要な人なのか、だれが自分の人生には不必要なのかが分かるはずです。 いま自分にとってなくてはならないと思っている人が本当は不必要だったり、うっとうしくて仕方がないと思っている人が必要なのかも知れません。

  自分に忠実に生きることが信頼される近道だと思うのです。 八方美人にならない、自分の意見をはっきりということが信頼される近道だと思います。

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