「人と接触しなければ、嫌な目に遭うこともない」とは、本当か

 朝日新聞の地方版に次のような記事がありました。 100円駐車場の話ですが、仙台の中心部でも空き地になっている土地が、無人の駐車場として利益を上げているという記事です。 そのなかで利用者の声として、「ちょっとした買い物には低料金の駐車料金で済むし、なによりも駐車場の管理人と顔を合わせないので不快な思いをしなくて済む」と書いてありました。 49才の主婦の意見だそうです。 私はこの話の後半の部分が気になって仕方がないのです。 「他人と顔を合わせなければ不快な思いをしない」という部分です。 この主婦は人と顔を合わせることは不快なことなのでしょうか。

  私にも、この主婦の言いたいこと、気持ちは十分理解できます。 確かに他人やいやな人と顔を合わせることは普通の人にとってもいやなこともあるし、いま落ち込んでいる人にとって他人と顔を合わせることは、自分の心をのぞかれているようでいやなことだということも分かります。 しかしながら、我々は社会生活を営んでいる以上、他人と顔を合わせない訳にはいかないのです。 他人と接することは生活の基本であり、このことをいやがっていては心の豊かな人間にはなれないでしょう。 この主婦は自分の子供にどんなしつけをしているのかと、心配になります。 この主婦がこのホームページを読んだら「余計お世話だ」と怒ることでしょうね。

  この主婦に限らず、いまの日本人の多くがこのように考えているのではないでしょうか。 これが怖いのです。 他人と接する機会が少なくて、人間性を磨くことができるのでしょうか。 子供はテレビゲームに熱中し、次には受験勉強だけを強いられ、情緒や感情をはぐくむ機会が極端に少なくなってしまいました。 それなのに親がこのようでは、社会の先行きが思いやられます。 私の取り越し苦労ですめばいいのですが、それだけで終わることはなさそうです。 いま17才の犯罪が問題になっていますが、小さい頃から人との接し方を教えられていれば、あのような犯罪も決して起こさないで済んだと思うのは私一人でしょうか。  

  他人と接触しないことは、よけいな気を遣わなくていいことには違いなのですが、それでは人間としてなにも得ることができないのです。 失うものはいま以上にないでしょうが、得るものがなくなってしまうのです。 確かに自分が不快な目に遭うことはなくなるでしょうが、それ以上に得るものがなくなってしまうことを強調したいのです。 だから気ままで、わがままで他の人の心の痛みが分からない人間になってしまうのです。 他人とは積極的に関わっていくことが、自分を磨いてくれるのです。 自分の意図しないことに出会うこと、自分の力ではどうにもならないことが、人間を磨いてくれるのですから。

  できるだけ他人と接触しないで、自分の好きなことばかりしていれば満足感を味わえるのでしょうか。 満足はしても、充実感は得られるのでしょうか。 社会的に成功した人が年をとったときに、自分の人生を振り返ったときに寒々としたものを感じるのには、このような自己中心的な生き方をしてきたことが関係していると思うのです。 そのときはよくても、後になってでてくるのは虚しさだけではないでしょうか。 「自分の生き方は、これでよかったのか」と。 色々な人と接し、いろいろなことを経験することがなによりも必要なことだと思います。 そのときはつらくてもです。 前にも書いたことですが、経験こそが人間を育ててくれるのです。 その大事な経験を逃げていては、後で苦労するばかりでしょう。 そのときは不快なことでも、生きていく上で避けてはならないこともあるのです。 どんなことを避けてもいいのか、どんなことは避けてはならないのかを自覚することが必要だと思います。 短い項目ですが、とても大切なことと思ったので書いてみました。 

 人との接触を避けることが、あとになって取り返しのつかない状況を作り出す可能性が高いと言いたいのです。

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