最善策をとらなければならないと思うから、なにもできなくなる

 人生のささいなことも、大きなことも、ことの大小軽重を問わず決断の連続です。 私たちは「決断」というと、なにか大きなこと、重要なことと思いがちですが大きなことだけが決断ではないのです。 毎日のささいなことも決断なのです。 私たちはなぜ重大な局面で、決断が鈍ることがあるのでしょうか。 まず、その原因を考えてみたいと思います。

判断材料が少ない
       ・どれくらいのデータがあれば確実な決断を下せるというのでしょうか
       ・データ依存症については後で書く予定です
自信が持てない
ほかにもっとよい方法があるのではないか
ほかにもっとよい方法があるのではないか
結果を考えると恐ろしくなる
       ・決断したら結果はあまり考えてはいけないと思います
責任を持ちたくない
       ・社会的な地位を自ら放棄することと同じだと言えます
決断を先延ばしすればよい方法がでてくるかも知れない
       ・先延ばしすることは状況を悪化させることが多いのですが
先が読めない 
       ・このような時代に先の読める人はどれくらいいるのでしょうか

  このほかにもいろいろとあるとは思いますが、ここでは「ほかにもっと良い方法があるのではないか」という理由で決断できない場合を考えてみたいと思います。 アメリカの有名な経済学者であるドラッカーは「決断とは未来に対する現在の決定である」と言っています。 未来は不確定なので、将来の状況を予測して計画を立て未来に備えることが決断なのです。 「分からないことに対する備えをすること」が決断なのです。 将来がどのようになるかを、自信を持って言い当てることは不可能です。 それにもかかわらず、不確定な将来のために不確実な材料をもとに計画を立てなければならないのです。 それがうまくいくこともあれば、場合によっては致命傷となることもあります。 決断が鈍る最大の理由は自分が失敗の責任をとることが恐ろしいからだと思います。

  その恐ろしさとは、 仕事であれば

上司に怒られて無能なやつと思われるかも知れない
商談が破談になるかも知れない
職場の中で白い目で見られる
配置転換になるかも知れない
昇級停止になるかも知れない
出世が遅れるかも知れない
降格されるかも知れない
解雇されるかも知れない
社会的な地位や名誉を失うかも知れない

 個人的なことであれば

能なしと思われるかも知れない
笑われるかも知れない
信頼を失うかも知れない
友人を失うかも知れない
プライドを傷つけられるかも知れない
恋人や妻子を失うことになるかも知れない

 などが、あげられるでしょう。  

 では失敗しないためにはどうすればいいのでしょうか。 それは本当に皮肉なのですが、「なにもしないこと」、これしかありません。 なにもしなければ失敗はしないのです。 なにかをするから、失敗も起こりうるのです。 これは本当に皮肉なことと言わざるを得ませんが事実です。 でも、なにもしないことこそが最大の失敗だと思います。 

  でも、なかには「最善を尽くせば失敗はしない」という反論もでてきそうです。 しかしながら、現実には最善を尽くしたからといって、失敗しないという保証はどこにもないのです。 そもそも最善とは何か。 各人各様のレベルでの最善があるのです。 だれもが一目置くような能力のある人でさえ、失敗することもあるのです。 

  私は、「最善を尽くすとは」結果論でしかないと思います。 なにかをするときに最善を尽くさなければならないと思うから、決断ができなくなるのです。 最善と言われはないはずなのですが、現実には最善策を採っても失敗すれば避難されるのです。 批判する人は、結果論だけで批判するからです。 結果論はいつも正しいのです。 このことからしても、最善を尽くすとは結果論だということがでると思います。 その時点で考え得る最良の方法を用いたにもかかわらず、失敗したらどうすればいいのでしょうか。 どうにもしようがないのです。 言いたい人には、好き勝手なことを言わせておけばいいのです。 それは負け犬の遠吠えですから。 

  もし仕事でも私生活でも失敗が許されないとしたら、人生はどうなるでしょうか。 (ただし、仕事の失敗と私生活における失敗とを同一視することは、避けなければならないことはもちろんです。) 仕事で失敗することはお客様に迷惑をかけることなので、失敗は原則としてやってはいけないのですが、失敗しないことを重視しすぎると能率が下がり、結果として組織は停滞します。 社会主義国家や各国の官僚制度を見れば一目瞭然でしょう。 個人的なことでも失敗が許されないとしたら、だれが積極的にやる人がいるでしょうか。 だれもなにもしなくなり、責任の押しつけ合いだけをすることは必定です。  

  すなわち完全を求めることの行き着く先は、「なにもしなくなる」、「なにもできなくなる」ということなのです。 最善を求めすぎるから、結果のみを求めすぎるから、やるまえからなにもできなくなるのです。 最高を期待しすぎるから、失望もするのです。 人に負けたくないと考えすぎるから、この社会は競争がすべてだと考えてしまうのです。 (念のために言っておきますが、人に負けたくないと思うことが悪いと言っているのではありません。 「そう考えすぎるな」と言っているのです。)

  どうすれば決断が鈍らなくなるのでしょうか。 それはベストを求めずにベターを求めることだと思います。 ベターを求めるといっても、はじめからベターを求めるのではなく、自分の能力の範囲でのベストを求めることです。 自分の能力を超えるような方法を求めようとするから、なにもできなくなるのです。 もっといい方法があるだろうと思っても、考えつかないことはどうしようもないのです。 自分の能力を超えるものを求めても、そこで得られるものは失望と無力感と挫折でしょう。 自分の能力の範囲内でのベストを求めて、その結果の責任を引き受けることです。 やりかたは決断できても、実行に移せない人は責任をとれないからです。 自分で最善だと思ったことに責任を持てなければ、いったいどんなことに責任を持てるというのでしょうか。

  この社会のすべては刻一刻と変化しているわけですから、将来に対する保証は基本的には存在しないのです。 その存在しない保証を求めるから、なにもできなくなって当然なのです。 ないものを求めているのですから。 この社会は最善の結果を期待しても、期待通りになるかどうかはまったく分からないということを忘れてはいけないのです。 それを承知の上で努力しなくてはならないのです。 次善の策、ピンチヒッターとして用意した策が成功し、最善と思った策が失敗することも珍しくはないのです。 「結果オーライ」というやつです。 自分の身の回りにも「結果オーライ」は、随分とあります。 そしてそのような成功を自分の用意周到さの結果だとうそぶくこともありますね。  

  決断が鈍らないためには、最善にはこだわらないことです。 最善の策を立てたからと言って、成功するとは限らないからです。 もちろん成功する確率は高くなるはずですが、成功するとは限らないのです。 

  よく結果論だけを振り回して人を責める人がいますが、そのような人は自分で責任のあることはあまりしていないのではないでしょうか。 私には、そんな風に思えることがよくあります。 自分に考えられる最良の策をとること、そしてその結果の責任を甘んじて受け入れること、これができれば決断力のある人になれると思います。

  結果論だけで物事を判断する人は、現実の価値を認めることのできない人であり、現実の価値を認めることのできない人は社会とうまく調和して生活することのできない人であり、孤立せざるを得ないと思います。 このような人は現実の価値を否定することによってのみ、自己の存在を認めさせようとしている人たちなのです。 こんな人が身の回りにいるならば、早く逃げ出さないと自分もそのようになってしまいますよ。 よく周りを観察してみてください。 

  最善ばかりを期待しても、結果も最善になるとは限りません。 世の中には個人の力ではどうにもならない「時代の流れ」とか、「時の運」というものもあるのです。 仏教では「因縁」というようです。 このようなものは期待しても得られるものではなく、あくまでも結果なのです。 このようなことも頭に入れておいて努力しないと、最善を尽くしたはずなのに失敗すると立ち直れなくなる恐れがあります。 こんなことで再起不能になったら、それこそ死んでも死にきれないではありませんか。 個人の力の及ばないことは、事実をありのまま認めるしかないのです。 「我に利あらず」と。 このことをどうしても受け入れられないと、精神症になっても知りませんよ。

  いったん決断したら、途中では結果はあまり考えてはいけません。 途中経過をチェックすることは必要ですが、結果までを予測してはいけません。 結果を気にしすぎると、どうしても自信がなくなりがちであり、ひいては成功することも余計な心配の結果うまくいかなくなることもあるからです。 とくに仕事で自分が責任者の場合は、結果を気にすることは、部下には「あなたには自信がない」と映るからです。 走り出したら、流れに乗りながら考えればいいのです。 立ち止まったり、流れに逆らうことは失敗のもととなりやすいものです。 人生やものごとには理屈では説明の付かない流れというものがあります。

  生きていく上において、この流れをつかむということがどれほど大切なことかは、言うまでもないと思います。 いま流れが自分に向いてきているのが、遠ざかっているのか、そのことがおおよそ判断できるようになれば、人生の苦労は随分となくなるはずです。 流れに逆らっても、苦労するだけで、得るものはないでしょう。 人生の流れをつかむことについては、別のところに譲ります。

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