自分の考え、生き方に固守するから、生きることがますますつらくなる

 人間はだれでも自分の考え方や生き方は、他の人よりも正しいものだと思っているもしくは思いたがっているはずです。 よしんば正しくなくとも、正しいと思いこもうとしているのではないでしょうか。 しかし、ものごとにはなにごとも行き過ぎがつきもので、自分の考え方や生き方だけが正しくて、他の人のそれは正しくないと思っている人たちもおります。 たとえば、宗教で言うところの「原理主義者」のようなものです。 このような人は自己主張することは得意ですが、他人の意見に耳を貸さない、あるいはまったく無視するということをやりがちです。 そして自分の意見が採用されなかったり、自分の言うことが理解されなかったりすると、「自分は正しいのに、なぜ理解してもらえないのだろう」と考え、自分は間違ってはいないのだから間違っているのは相手の方だと短絡的に考え、社会や相手に対して恨みを持つようになりがちです。

  このような人は周囲の人との意志の疎通がうまくできず、人間関係においては非常に苦労をし、しまいには相手の意見を徹底的にやっつけないことには気が済まなくなってしまいます。 議論をするにも、よりよくするために議論をするのではなく、相手に勝つため、自分の正当性を相手に認めさせるため、相手を負かすための議論をするようになります。 自然科学の分野においては正解はひとつということが常識ですが、一般的な社会のできごとには正解はただ一つということはかえって少ないことと思います。 各人各様にものの見方や考え方が違うので、出てくる回答もそれなりに異なってくるのです。  だから自分の意見だけが正しいから、相手は間違っているというのは短絡的思考なのです。 社会問題を扱う難しさは、このようなところにあるのです。 社会的な事象は様々の要素が様々にくみ合わさって全体としてひとつの現象になっているのであって、「視点が違えば答えが違ってくる」ことは言うまでもないことなのです。

  よく昔のように(もう昔のことと書くような年齢になってしまいました)マルクス主義者(共産主義者)達が、「我々は正しくて、資本家達の言っていることややっていることはすべて間違いだ、すべて反動だ」と言っていたことと似ています。 ここには大切な大切な前提が抜け落ちているのです。  それは「マルクス主義の立場に立ってものごとを考える限り」ということです。 世の中はどのような立場で考えるかによって、結論はまったく異なってもおかしくはないのです。 なにしろ人の数だけの前提があるのですから、人の数だけの答えがあって不思議ではないのです。   自分の考え方は、その多数の中のひとつにすぎないのです。 このことは重要なことだと思います。 多数の中のひとつと考えることによって、相手の立場も尊重できるようになるからです。

 ではなぜ自分の考えだけに固守すると、自分の生き方が苦しくなるのでしょうか。

自分の考えを理解してもらうために自己主張が強くなる
       ・ 前に書いた「もっと自己主張しよう」とは意味がまったく違います
自分以外の考え方を受け入れることができない
相手が「まいった」と言うまで追及の手をゆるめない
      ・ たとえ議論で勝っても、人間関係を持続することはできない
攻撃的性格にならざるを得ない
ものごとは決着をつけないと収まらない
      ・ 決着のつけられないことやつけられないこと人もある
相手の意見を認める心の余裕がなくなる
      ・ 自分の正当性だけを主張するため
相手の意見と相手の人格の区別ができなくなる
      ・ 相手の意見が相手の人格そのものと勘違いしてしまう
自分より納得性のある意見が出てくると、それを徹底的に潰さざるを得なくなる
      ・ 自分の面子を守るため
      ・ なにしろ自分だけがこの世の中で正しいのだから、相手の意見を認めることは万死に値する
自分の進歩が止まり、いつもおなじことを言うようになる
 同調者とはうまくやっていけても、意見の違う人とは協調できなくなる
      ・ 面子にこだわるため

  なによりも大切なことは、自分の意見が理解されないと相手が間違っている、相手が悪いとしか考えられずに相手を恨んだり、社会を呪うようになり、積極的な生き方ができなくなるのです。 なにをするにしても建設的になるのではなくて、やっていることのすべてが相手を潰すようになるからです。 このような人と仲良くやっていこうという人は、いなくて当然です。 そうなるとますます相手や社会を呪い、従来以上に社会に対して背を向けた生き方をするようになってしまいます。 このような人を世間では反骨精神の強い人ということもあるようですが、それはとんでもない誤解です。 反骨精神が強いのでもなければ、たんなる「ひねくれ者」だと思いますがいかがでしょうか。

  ここで断っておくべきことがあります。 自分のことだけを主張するなというと、すぐになんでも相手の言うままにしろというようにとらないで欲しいということです。 相手の言うがままにするということは迎合する、妥協するということであって、迎合することは生きることを苦しくするだけです。 なにしろ自分の価値判断の基準を相手に預けてしまうことですから。 この件については以前にいくどとなく言ってきましたので、ここでは割愛します。 相手の意見は尊重しなければなりませんが、相手の意見に迎合する必要はないのです。

  相手の意見を尊重するということは、自分が負けるとか、迎合するとか、卑屈になるとはいうことと次元の違うことなのです。 このことが分からないから、すぐに勝ち負けを競ってしまうのではないでしょうか。 相手を尊重することは、お互いに人格を高め合うことです。  相手には相手なりの考えがあるのだということを、納得することだと思います。 それは同時に自分には自分なりの考えがあるのだということを、相手にも分かってもらうことなのです。 お互いの相違を認め合うことによって、尊重し合えるのです。 そしてそこから協調点を見いだしていくことができるのです。

  自分ばかりを認めさせようとすることは、逆の立場で考えると自分は相手の考えを丸飲みにするということであって、それは普通の人には受け入れることのできないことです。 こう考えると自分の考えを相手に押しつけようとすることが、いかに愚かなことかが理解できると思います。 信念を貫くことと自分の考えに固守することとは違うのです。 自分の信念を貫くためには、必ずしも自分の考えにだけ固守しなくてもいいはずです。 自分の考えに固守する人は自信過剰な人か、それとも逆に劣等感に苦しんでいる人だと思います。

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