希望を持って努力する限り、挫折や絶望も避けられない

  なかなか自分の思い通りにはならないのが、人生だと思います。 できることならば、「人生は自分の思い通りになってくれれば」とだれでも願っているはずですが、結果はその逆のことも多いようです。 なぜ人生は、自分の思い通りには、なってくれないのでしょうか。 なぜ人生には、いやなことがつきまとうのでしょうか。 それについては「この世の中はすべてが相対的だ」を読んでください。

  そこでは

悲しみが分からなければ、本当の喜びが分からない
生まれてくるから、死んでいく
不幸が分からなければ、本当の幸福が分からない
低いところがなければ、高いところが分からない

 などと、書いてあるはずです。 また別のところでは、「努力するかぎり悩みや苦しみは避けられない」とも書いたように記憶しています。

  人生は、いや人生に限らずこの世の中のすべては裏と表が対になっているのです。 このことは、どんなときにも忘れてはならないことです。 とくに逆境にあるときは、とくに忘れてはなりません。 このことさえ忘れなければ、どんなにつらいことも乗り越えることができます。 なぜなら、この逆境を乗り越えることができれば、その後にはいいことが来る可能性が高いことを知っているからです。 いいことは必ずしもすぐに訪れるとは限りません。 多くの場合は、しあわせは短く、不幸は長く感じられるからです。 いまは亡くなりましたが扇谷正造(正造という字は間違っているかも知れません)という評論家の有名に言葉に「朝の来ない夜はない」という言葉があります。 ご存じの方も多いでしょう。 問題は朝まで待つことができるかどうかということです。 朝まで待ちきれなくて、自殺したり、自暴自棄になって非行に走ったりする人が多すぎます。 「夜明け前が一番暗い」ともいいます。 夜明けがすぐくるのに、いままでの暗さに耐えかねてしまうのです。 いままでの辛抱を思えば、また朝のこない夜はないことを知っていれば、たいていのことは耐えられると思います。

  この社会は不平等・不公平にできています。 努力した人が必ずしも報われるとは限らないのです。 (報われるということの中身がなにかということが問題なのですが。) それは努力する動機や方法に問題があったからではないでしょうか。 やみくも努力しても、成功はおぼつかないと言えます。 相手を蹴落とすために努力しても、心の安堵感は得られるはずがありません。 相手を蹴落とせば、次に自分が蹴落とされるかも知れないという不安にとりつかれるからです。 そのようなことが達成された後に味わう気持ちは、空虚さだけではないでしょうか。 また希望すればそれだけでかなえられるほど、世の中はそんなに甘くはないのです。 

  努力や希望が達成されたときの喜びを感ずるためには、この努力や希望がかなえられなかったときの心の痛みを知らなければならないのです。 挫折や絶望は、ごめん被りたいのですが、そうもいかないのです。 色々な意味でのどん底や苦しみを知らないひとは、本当の喜びも味わえないことになるのだと思うのです。

  人生は自分の思い通りにはならないものです。 だからといって、あきらめてしまえばなにもできません。 あきらめの人生は、死んだことと同じです。 むしろ死よりも始末に負えないようです。 死んでしまえば、なにも分からないので問題にはなりませんが、いくらあきらめたといっても、まだ生きているのです。 生きているかぎりはいかなる人でも、どんな絶望の中にあっても、心の奥底では希望を持っているのです。 だから絶望感がより深くなってしまうのです。 禅などの修行によって欲望を克服できたような人を除けば、いくら「あきらめた」と言っても、あきらめ切れていないはずだと思います。 あきらめきれないのにあきらめたと思うように生きようとするから(これが最大の自分に対する罪かも知れません)、どうすることもできず、なにごとにも価値を見いだせなくなるのだと思います。

  とにかく、ここで言いたいことは、次のことだけです。

「希望を持って努力するかぎり、挫折や絶望は避けられない」

挫折や絶望の時点で倒れて起きあがれなくなるか、また起きあがって希望を捨てずに歩き始めるのかが大問題です。

  むしろ、本当にあきらめの人生を送っている人であれば、かえって気持ちは明るくなれるのではないかと思うのです。 なぜなら、あきらめた人にはなにがどうなろうと、どうでもいいことになるからです。 いいことがあろうと、悪いことがあろうと、あきらめた人には関係がないはずです。 いいことがあれば、それは儲けものだからです。 それなのに暗く沈んだ顔をしているということは、あきらめ切れていないということです。

  昔こんな経験をしたことがあります。 ある人が「この世の中のことをあきらめることができたなら、宗教の世界に入る」と言った人がおりました。 そのとき、別の人は「自分はこの世の中をあきらめることができないから、宗教の世界に入る」と言いました。 人間は、動機がまったく正反対でも、同じ結果になることもあるのです。 まさに、ものは考えようだと思います。

 挫折や絶望にさいなまれると言うことは、逆に言えばその人は人生を諦めないで努力しているということになるのだと思います。 挫折や絶望さえも感じ取れなくなったら、なんのために生きているのか分からなくなってしまいます。

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