なぜ、何もする気になれないのか

 無力感にさいなまれて、なにもする気が起きなくて困っているひとも大勢いると思います。 自分ではどうにかして現状を変えなければならないと思いながらも、現状を否定するばかりでなぜ行動する気になれないのでしょうか。 その理由としては、

やってみても、なにも変わらないと思い込んでいる
自分にはなにごともやる価値はないと思い込んでいる
やる前から失敗するに決まっていると思い込んでいる
すべては親が決めてくれていた  (自分は親の決定したことに従ってばかりいた)
自分がどんなに努力しても、相手が分かってくれようとしない
自分がどんなに説得しても、相手は変わらない

  なにもする気になれない理由はまだまだあると思いますが、そこに見受けられる共通した意識は、

なにごとも否定的・消極的に考えている
やってみる前から否定的な結論を出している
自分にはなにをする勇気・能力・価値がない
なにをするにしても、十分な条件がそろっていないとやる気になれない  (条件がそろうと、また理由を付けてやろうとしない)
 だれかがやってくれると期待して、自分ではやらない
自分を理解してもらえない

  要するに無力感にさいなまれて、すべてがむなしくなってしまったのだと思うのです。 かっこのいい言葉で言えば、価値観を喪失しているのです。

 なにごとにも、価値を認められないからなにもする気になれない、なにもする気になれないからなにごとにも価値を認められない、この悪循環に陥っているのです。 これでは、現状から抜け出すことはできないでしょう。 「卵が先か、鶏が先か」になってしまっているのです

  この世の中の多くのことはやってみなければ分からないのに、はじめに結論を持ってくるからなにも出来なくなってしまうのではないでしょうか。 いま無力感で苦しんでいるひとは、やってみる前から否定的な結論を出してはいませか。 または自分がいくら努力して、相手を説得しても、相手はなにも変わらないと無力感を感じてしまうのだと思います。

 このことの例として、私の父のことを書いておきます。
 なぜやる前に結論を出してしまうのか。 それこそが問題だと思うのです。 これは改めて取り上げる予定です。

  私の父はまもなく80才(これを修正している現在は亡くなっておりますが)になります。 私の家庭もご多分に漏れず昔は貧しかったのです。 父はギャンブルや酒や女には手を出さなかったので(正確に言えば手を出す勇気もなかった)、周囲から見れば大変良い父親に見え、性格も明るくて世間からはだれひとりとして悪く言われることがありませんでした。 そして仕事一辺倒でした。 しかしものの見方は常に否定的であり、私には常にこう言っていました。 「世の中はな、長いものに巻かれろと言って、力のある人にはだまってついていけばいいのだ、力のある人には逆らっては損をするだけだ」、そしてもうひとつ「やってもだめなんだ、どうせ失敗するに決まっている、うそだと思うならやってみるがいいさ、どうせ失敗するから」。 いつもこう言っていました。 そこには上記のような姿勢があります。 そしていまは悲しいことなのですが、心を病んでしまっています。 なにを言ってあげても、なにもする気になれないのです。

  私はこの経験からも、「人生には逃げ場はない」とつくづく思わざるを得ません。 問題は若いときに苦労を経験するか、晩年に近くなってから苦しむのか、そのどちらからになると思っています。 人生はなぜかは分かりませんが、どこかで自分自身のつじつまを合わせるように出来ているのだと思うのです。 若いときに精神的な苦労をしなければ、年をとってから苦労をすることになるし、逆に若いときに苦労をすればそれが人生の糧となって年をとってからの苦労は軽く感じられるのだと思います。

若いときに思いやりを持てた人は幸せな人だと思います。
    自分が苦労をしたから他人に対して思いやりを持てるのであり、他人の人生に共感できるからです。
若いときに苦労を重ねた人は幸せな人だと思います。 
    他人の苦しみや悩みを自分のこととして分かってあげられるからです。
若いときに失敗から学ぶことの出来た人は幸せな人だと思います。 
    失敗によって自分は強くなれたからです。

若いときにさまざまなことを経験できた人は幸せな人だと思います。 
    経験によって自分を磨くことが出来たからです。

若いときに決断することの大切さを理解できた人は幸せな人だと思います。 
    自分の人生を切り開く勇気と知恵を手に入れることが出来たからです。
若いときに現実から逃げないことを学んだ人は幸せな人だと思います。 
    困難を乗り越える勇気を手に入れたからです。
若いときに八方美人にならないことの大切さを学んだ人は幸せな人だと思います。 
    そのひとは決して心を病むことがないと思うからです。
若いときに自己主張をすることの大切さを学んだひ人幸せな人だと思います。 
    そのひとは他人の大切さを理解できるからです。

  なぜなにもする気になれないのか。 それは常にものごとを否定的、消極的に考えてしまい、そして結論をはじめから決めつけてしまうからではないでしょうか。 または、自分が周囲や特定の人に受け入れてもらえない、あるいは理解してもらえないからではないでしょうか。 相手は自分の言い分だけをあなたに飲ませようとして、相手自身が変わろうとすることを拒否しているからではないでしょうか。 なぜそうなってしまったのか。 多くの場合小さいときからの親のしつけや、自分を取り巻く周囲の人々から影響されたはずです。

  要するに、生きることにむなしさを感じてしまったからではないでしょうか。 「むなしさ」、これは人間の究極に苦しみではないでしょうか。 生きることに、やってみる前に結論を出してしまうから(ほとんどの場合、否定的な結論)、生きることに興味もなにも持てなくなるのでしょう。 人間、否定的な結論が出ていれば、なにもする気になれなくて当然です。 底に待っていることは、心を病むことだけではないでしょうか。 目的もなく、価値もない人生を生きていれば、心を病むしかなくなると考えます。

  自分が相手をいくら説得しても、相手はあなたの言うことはなにひとつ聞き入れようとしない。 逆にあなたを相手の考えに従わせようとばかりするから、あなたは無力感を感じてしまうのだと思います。 一方的に自分が変わることばかり要求されたら、自分はやる気がなくなっても当然でしょう。

  世の中にはやってみなければ分からないことが沢山あるのです。 やってみてから結論を出せばいいのではありませんか。 自分の失敗を笑う人がいたら、笑わせておけばいいのです。 そんな人は他人の失敗を酒の肴にして、自分がなにもできないことをごまかしているだけなのですから。 他人を批判して自分の心の弱さをごまかしているだけなのですから。

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