自分が変わろうとすれば、もうひとりの自分が抵抗する

 「やってはいけないと分かっていながらやってしまう」、「やらなければならないと分かっていながらやらない」。 まさに私のことです。 人間にはひとつの体とひとつの心しかないはずなのに、なぜ考えていることが実行できないのでしょうか。 私には分かりません。 もしかした、永遠の謎かも知れません。

  分からないけれども、手がかりがありました。 それはこのホームページに書いた「この世の中はすべてが相対的だ」ということです。 それは私がある本を読んでいたときに出会った言葉です。 その本には「喜びを理解するには、苦しみが分からなければならない」、「悲しみをを理解するには、うれしさが分からなければならない」、「寒いということを理解するには、暑いということが分からなければならない」ということが書いてありました。 

  この考え方からすれば、「やってはいけない」ということを理解するには、やってその結果を経験するしかないということになります。 「やらなければならない」ということを理解するには、やらなければどうなるかを経験するしかないということになります。 そのために、人間は「やってはならない」と理屈では分かっていても、理屈だけでは実感がないので「やってはならないことをやって、その結果を味わうしかない」のだと確信したのです。

  だから人間は「やってはいけないこと」を体で理解するためにやってしまうのだと思います。 やってしまったことの結果を通してしか、我々はことの重大さを身をもって理解できないからです。 問題はそのことに気がつくかどうかということです。 気がつくまで繰り返してしまうのではないでしょうか。 そのために人の心の中には、自分の考えることに抵抗するもう一人の自分が必要なのだと思います。 非常に哲学的でもあり宗教的なような気もしますが、そんな難しいことはさておいて、私はそう理解するようになりました。 本当の自分を知るため、本当の生き甲斐を知るためには、それとは対立するもう一人の自分が必要不可欠なのです。

  すべてのことが自分の思い通りになるなら、人生は楽しいかも知れませんが、それでは本当の楽しみは味わえないということだと思います。 すべてが自分の思い通りになる世界は存在しませんが、もしそのような世界に住んだとしたら退屈で仕方がないと思います。 これだけは体験してみないと断言できませんが。 最近ある本に書いてあったことですが、どこの国の人が忘れましたがすべてが順調で幸福の絶頂にある人が自殺したそうです。 その理由がまことに恐ろしいのです。 これ以上の幸福はないから、いまの幸福を失わないために自殺したというのです。 世界にはこのような理由で自殺する人もいたのです。

  自分で自分をコントロールできなくて苦しむのは、その苦しみを克服したときの喜びの大切さを知るために必要だということです。 苦しみや悩みは、苦しむこと、なやむことが目的ではなくて、生きることの充実感を理解するためにあるです。 苦しい思いをして山の頂上に立ったときの気持ちと、まったく同じことでしょう。 その苦しみや悩みが克服できなとすれば、それはやり方に問題があるのではないでしょうか。

  生きていくことは自分が最良の状態にあっても、なおかつつらいことなのです。 最良の状態にない人にとって、生きていくことがつらくないはずがありません。 基本的に生きることは苦しみと闘うことです。 

  生きていくとは、抵抗するもうひとりの自分を克服していくことなのかも知れません。

 我ながら偉そうなことを書いてしまいましたが、そう確信して努力するつもりです。

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