生き方がつらくなるのには、それなりの理由がある

  この世の中は因果の法則に左右されています。 因果とは原因と結果の相互作用を言います。 ひつとの原因があってある結果が生じる。 今度はその結果が原因となって、また別の結果を生じる。 この世の中のすべては、この原因と結果の連鎖反応なのです。 「すべてが」です。 例外はありません。  そして直接の原因の間にも、間接の原因が複雑に絡み合ってくる。 これが人生を織りなしていると思います。 このことについても、どこかで考えなければならないと思っています。  この法則から逃れられるものはないといっていいでしょう。 我々の世界では原因がなければ、結果が生ずることはないのですから。  原因が同じであっても、それに関わるひとの考え方が異なれば結果も自ずから異なってきます。 視点が異なれば、結論も異なってくるのです。 

  話は違いますが、お釈迦様はこの原因と結果の連鎖反応を断ち切ることによって、人生の苦しみから逃れることができたのだと思います。 「天上天下唯我独尊(てんじょうてんがゆいがどくそん)」とはあまりにも有名な言葉ですが、その後に続く言葉は「ゆえに我、一切の輪廻を断てり」と続くそうです。 私の記憶違いでなければ。  因果の法則を断ったがゆえに、救われたとでもいうのでしょうか。 お釈迦様は原因と結果の織りなすもろもろのしがらみから抜け出すことができたのです。 私の勝手な解釈なのですが。 私の入院中に知ったことなのですが、「人生は苦である」というときの「苦」とは「人生は思い通りにはならない」ということだそうです。

  因果は意識するとせざるとに関わらず、人間はこの法則から逃れられないのです。 だから人生は思い通りにはならない、人生は苦しみだという思想が生まれたのだと思います。 しかし因果の法則から逃れることができなくても、結果を変えることはできると思います。 結果を変えるという言い方は適当ではないので、次のように言い改めます。 「結果論として結果を変えることができる」、「終わってみたら結果が変わっていた」とでも言いましょう。 どのようにして結果を変えるかというと、当初とは考え方を変えて、行動を変えることによって結果を変えるのです。

  しかしながら、でてきた結果と当初のやり方ででてくるはずだった結果のどこがどう違うのかは、だれにも分からないのです。 自分でも詭弁を使っているようですが、それしかないと思います。 当初のやり方でやったことの結果はある程度の見当はつきますが、その結果がどうなったのか正確にはだれにも分からないのです。 なぜなら当初の方法は実行しなかったので、予想のできなかった事態が生じて予想もしなかった結果がでた可能性もあるからです。 やってみないことは分からないのです。 失敗したときに「ああすればよかった」と言っても、その結果は分からないのです。

  分かりやすい例を引けば、パチンコがあるでしょう。 大負けしたときに「別の台に座ればよかった」といっても、現実には別の台に座らなかったのですから、別の台で勝てたのかどうかは分からないようなものです。 

  また宝くじがはずれたから別のくじを買っていればよかったと思っても、そのくじがあたっていたかどうかは、買ってみければ分からないのと同じことです。 別のくじを買わなかったから、別のくじが当たっていたかどうかは分からないのです。 

  自分の生き方を楽にするのも、苦しくするのも自分の考え方次第だと言いたいのです。 乱暴に聞こえると思いますが。 相手の言動によって自分の決定に大きく影響を受けることはあっても、最終的に決断したのは自分だという意味において、自分の生き方を楽にするのも、苦しするのも自分なのです。 このことを心に留めておくことは大切なことだと思っています。 いくら相手から強く影響を受けたからといって、相手に責任転嫁をしても真の問題解決はないと思います。 やっぱり最終的には自分が決断したのです。

  ものは考えようで、現実をどのように考えるかによって、人生は意味のあるものにもなるし、まったく意味のないものにもなってしまうのではないでしょうか。 このことはいくら声を大にして言っても、言い足りないことだと思っています。 私たちは簡単に「ものは考えよう」と口にしますが、その意味は限りなく深いと思います。 だから生きることが楽になるのも、苦しくなるのも、そのひとの考え方次第ということになるのです。

  だからすべてのことの根本は、自分なのです。 自分以外に頼るものはないのです。

  最も重要なことは、ものごとをどのように考えればいいかということです。 これこそがこのホームページの主題に他なりません。

  自分の生き方がつらくなる本当の理由は、他人にあるのではなくて自分にあるのだと言うことを忘れてはならないと思います。 念のために付け加えておきますが、どんなに相手に強要されたことでも結局は自分の決断で受け入れたのです。 一般的に言えば「受け入れたのではなくて、受け入れさせられた」のですが、でも自分が受け入れたことには違いはないのではないでしょうか。 相手を恨みたくなる気持ちはだれにでもあります。 しかし、しかしですよ、否応ながらも自分の決断で受け入れたのだと思います。

 立派なことを書きすぎましたが。

  「他の人は断ることができたことを、自分はなぜ受け入れざるを得なかったのか」。 そのことこそが、問題だと思います。 私も納得はしたくないことなのですが、それが事実だと言うことを考えてもらいたいのです。

  一番大切なことは、その生きることが苦しくなった理由に気がつくことができるかどうかだと思います。 生きることに問題意識を持っていなければ、現実が毎日「気づかせてあげる」と言っているのに、なにも気がつくことはできないと思います。

 他の人の生き方が楽しいのに、自分の生き方がつらく、苦しいのには、自分で決断したことの結果なのです。 決断(考え方)の違いが、生きることに反映された結果が、いまの自分とほかの人との相違だと言えるのではないでしょうか。

  このことに気づけるかどうかは、その人の生き方を決定的に左右すると思います。

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