人は結果的には傷つけ合わずには生きられない

 このことも、誤解されやすいことでしょう。 だれでもまともな考え方をする人なら、できるだけ相手に迷惑をかけないで生きていこうとするはずです。 それが社会生活を円滑にする重要な要素だからです。 でもなんどでも繰り返しますが、人生が自分の思い通りになることはむしろ例外なのです。 分かりやすい例を引けば、出かけようとすると不意の来客がある、自分が相手のことを思ってしたことが逆におせっかいと受け取られてしまう。 そんなことは枚挙にいとまがありません。 「世の中は自分の思い通りにはならない、自分の計画通りにはならない」ことが、当然なのです。 それを自分の思い通りになるはずだ、思い通りにならなければ気が済まないから、よけいなもめごとを起こしてしまうのではないでしょうか。

  「世の中は自分の思い通りにはならない」、この真実を活用できれば生きることはずっと楽になると信じます。

  人を傷つけたくないから、相手になにも言わない、なにもしない、よけいなことも言わないという人が増えていますが、本当に相手を傷つけることが怖いのでしょうか。 本当はそのことによっ、自分が傷つくことが怖いのだと思います。 自分が傷つくことを認めることを自尊心が赦さないから、相手を傷つけることが怖いといっているだけではないでしょうか。 この世の中は結果的に相手を傷つけてしまうことは、避けられないこともあるのです。

  相手に傷を付けないようにするとすれば、相手になもに言えない、なにもしてあげられなくなってしまうのです。 それが現状ではないでしょうか。 これも大切なことなので別に書きますが、人間はお互いに自分の考え方でしかものことを考えられないし、また見られないのです。 どんなことでも、最終的には自分というフィルターを通してしか見ることができないのです。 「自分がこのようにすれば、相手はこのように思うはずだ」と思っても、それはあくまでも自分の見方でしかないのて゜す。  相手がどんなふうに見るかはおおよその見当はつきますが、実際には分からないのです。 だから、自分がどんなに相手のためと思ってしたことも、相手の考え方からすれば好意とは受け取れないこともあるのです。

  これはだれでもが、いつも経験していることではありませんか。 「あいつのためと思って言ってやったのに、あいつの態度はなんだ。 ちっとも感謝していないではないか」。 こんなことは毎日のようにあると思います。 

  自分の好意も最悪の場合には悪意ととられてしまうこともあるのです。 これが「人は結果的には傷つけあわずには生きられない」ということです。 このことを避けようとするから、相手にはなにもしてあげられなくなり、思いやりがなくなっていくのです。 逆に言えば、思いやりのないこととは「自分が傷つくことが恐ろしくて、相手になにもしてあげられない人」とでも言えるでしょう。   

  自分が傷つくことを怖がっていたら、相手に思いやりをかけることはできないのです。 こう考えれば、いまの社会の多くの人に思いやりが欠けていると言われる理由も分かるような気がします。 自分が他人を思いやっていないから、自分も他人に思いやりをかけてもらえないと考えて当然です。 そうなれば、利己的に自分を守しかなくなるのではないでしょうか。 他人のことなどかまっていられなくなって当然だと思います。 人間は自分の考え方でしかものごとを考えられないのですから、そうなると最近気がつきました。

  もちろん意識的に他人を傷つれることは避けなければなりませんが、大切なことはもし他人を無意識にも傷つけてしまったときには、どうすればいいのかということです。 誠心誠意謝ることと、なぜそのような事態になったのかを反省して同じ間違いを繰り返さないようにすることしかないと思います。 これが「経験が人間を育ててくれる」ということです。

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