なぜ、痛い目に遭わなければ分からないのか

 このことはこのホームページの至るところで強調してきたことです。 「痛い目に遭う」とは、とりもなおさず「経験する」ことです。 人間は経験したことのないことは、分かろうにも分かりようがないと言うことです。 人間は経験することによって、はじめてものごとが理解できるのです。

  痛い目に遭うことによって、短絡的に社会や相手を恨んで、恨みを晴らすことだけが人生の目的になってしまったり、殺人を犯してしまったりすることも決して珍しいことではないのです。 経験することは「両刃の刃」なのです。 経験することによって自分自身を駄目にしてしまう人もいるし、逆にそこから自分のいたらなさを学んで生きることの糧とすることができる人もいるのです。 そのどちらを選ぶかは、その人次第なのです。

  できることなら、経験を人生の糧とできるようになりたいものです。 「なぜ痛い目に遭わなければならないのか」と訊ねられれば、「痛い目に遭わなければ、本当の意味で生きていけない」からだとしか言いようがありません。 苦しんでいるときには、このようには考えられないのがあたりまえですが、いつかは「あのとき痛い目にあったから、自分は目が覚めて立派な人間になることができた」と言いたいものです。

  このことは次のように考えると、とても分かりやすいのではないでしょうか。 なにも自分ではしない、親の言う通りにしている、他人の意見に従っているばかりの人を見れば、痛い目に遭うこと(経験すること)が人生においてどんなに重要な意味を持っているかが分かると思います。 この場合は、親や他人の言いなりになることによって、痛い目に遭っているのです。 ほとんどの場合、そのように考える人はまれでしょうが。

 自分が痛い目に遭うことをどのように理解するかが、人生のすべてを決定するのです。 問題意識を持っていない人は、痛い目にあっても相手を恨むことばかりしか知らないので、いつまで経っても自分が成長することができないのです。

  このページは短いですが、大切なことではないでしょうか。

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