人生は、痛い目に遭わなければ分からないようにできている

 子供や部下を叱るときに、次のように言うことがあると思います。

「痛い目に逢わないと分からないのか」
「何度、痛い目に逢ったら分かるのだ」

  私はこのホームページ全体を通して、「経験が人をつくる」とか、「失敗は行動の証」とか、「苦労すればするほどやさしくなれる」とか、色々の表現を使ってこのことを口が酸っぱくなるくらい話してきたつもりです。  「痛い目に遭わなければ分からない」という言葉は、あまりにも使われることが多いので、多くの人はたんに小言として聞き流してしまうことが多いのですが、その意味するところは深いのです。

  多くの人は痛い目にあってはじめて、自分の立場を考え直す機会になるのです。 失敗して、はじめて本当の自分の姿を見るのです。 痛い目にも遭わずに気がつくということはほとんどないのです。 もの心のつく前から両親に言われたことだけを信じて、その通りにやって失敗もしなかった人がいるとすれば、そのような人は痛い目に遭わないで人間的に成長してきたと言えるでしょうか、そのような人でも自分の経験したことのないことに遭遇すればどうしていいか分からなくなると思います。 だから過保護に育てられた子どもが、社会に出ると挫折しやすいのだと思います。 やっぱり、生きて行くには痛い目に遭わなければならないように、世の中はできているものだと言えます。

 痛い目に逢ったときに大切なことは、「自分だけがなぜこんな目に遭わなければならないのだ」と相手や社会を恨むことではなく、この苦しみや悩みは自分になにが欠けているかを教えるためにあるのだろうと考えることです。 苦しみのさなかにある人にとって、このように考えることは難しいのは百も承知していますが、そう考えることによって自分がなぜ苦しんでいるのかの意味が理解できます。 自分の苦しみを本当に理解して、その苦しみを将来に活かすためには、このように考えるしかないと思うのです。 こう考えることが、苦しみを本当に克服できる唯一の道だと思うのです。 相手や社会に責任を転化すれば感情的には、苦しみから一時的に逃げることは出来ても、なにひとつ解決することもなくかえって苦しみや恨みは深くなるだけです。 

  我々の陥りやすい重大な誤りは、相手や社会に責任転嫁して恨んだり、呪ったりすることによって、自分の怒りを静めようとすることです。 これで感情的には収まりがつくかも知れませんが、問題はなにも解決しないのです。 解決しないばかりが、かえってややこしくなってしまうのです。 感情を解決することと、問題を解決することはまったく違うと言うことを忘れてはならないと思います。 このことも、何度も言ってきたことです。

  苦しいときに感情と理性を分けて考えることは私にも自信はないのですが、この二つを峻別することを忘れなければ、正しい解決法が得られやすくなると思います。

  私の人生経験から、なにを言っても、どんな目に逢っても、何度言ってもどうにもならない人が何人かおりました。 そのような人の性格は、二つのタイプに分けられるようです。 第一のタイプは、

優柔不断
問題意識がない
おっとりしていて、自分の考えがない
常にだれかに追随する
 こまごましたこともできないのに、大きなことをしようとする
指示されたことが出来ないのに、自己流でやる
自分のことが自分のことと思えない
       ・ 現実を現実として受け取る能力が欠けている (リアリティー喪失症候群とは違うのですが)
自分自身を信じられない
人付き合いがとてもいい
八方美人だ
親の言いなりになって育ってきた

 このような人は、本当になにを言っても自分の態度を改めようとする気にもなれないようです。 このような人の心には、「恨む」という概念も存在しないようです。 怒られたからと言って相手を恨むでもなし、自分を反省するわけでもなし、現実からなにかを学でもなし、それはそれは極楽トンボのような生き方をしています。 どんなにつらい地獄のような状況にあっても、自分にはなんの苦しみや悩みも感じない、そんな人も世の中にはいるのです。

   これに対して、もう一つのタイプは、

すべてにおいて自己中心的である (ここで言う自己中心とは身勝手ということです)
他人の考えを理解しようともしない
自説にこだわりすぎる
自分以外の人のことはまったく眼中にない
       ・ あるいは、眼中にあっても意識的に無視する

  このような人は、痛い目に逢っても決して自説を曲げようとせず、周囲といらぬトラブルばかり起こし、周囲から厄介者扱いされる人です。 このような人の悪い点は、自分がなにをしているのか分かっているにも関わらず、自分の意志を貫き通そうとすることです。 それだけに始末におえない人なのです。 劣等感が強い証拠だと思います。

  痛い目に遭うということの意味を、よくよく考えてみることが必要でしょう。 日常生活において程度の差こそあれ頻繁に起こっていることなので、軽視しがちになりますが、このようなことを考えられる能力が問題意識を持つということではないでしょうか。 問題意識というと、なにか特別のことのように考えがちですが、決して特別なことではないということだと思います。

  痛い目に遭ったら、「ただでは起きあがらない」ことです。 その痛い目にあった経験の中からなにかを、なんでもいいから(極論すればマイナスのことでも)つかみ取って起きあがる問題意識を養うことにつきます。

  苦しみや悩みをどのように理解するかという、人生の根本的な命題にまでさかのぼってしまいますが、これは一人ひとりが自分で解決策を見つけなければならないことです。 逃げているつもりではなく、本当に一人ひとりか゜苦労をして自分で見つけなければならないことなのです。 だれかに与えてもらっては、またどこかでつまずくことになるからです。 自分で見つけた道が、だれかとまったく同じ道であったとして、それは他人のまねをしたのではなく、自分で切り開いたこの世に一本しかない道だと思います。 そのような道は、自信を持って歩んでいいし、自分と他人にも誇れる道だと思います。

  痛い目に遭わなければ分からないのは、個人に限ったことではなく社会や国家そして世界的な規模においても、同じことが言えるのです。 国連が出来たのも二度に渡る世界戦争の結果としてできたものであり、すべての法律も同じことです。 環境問題についても色々と批判されてはいますが、事態がもっと深刻にならない限りは、世界的規模での環境を守る運動はでてこないはずです。   

  人類が同じ間違いを犯すのも、理由は同じことです。 広島の原爆投下に対して「同じ過ちは繰り返しません」と言っていますが、世代が何代かにわたって変われば、同じ過ちを繰り返す確率の方が高くなるはずです。 なぜなら、いまから何代か後の人は原爆投下の経験をしていないからです。 このような意味で歴史は同じことことを繰り返してきたのだし、これからも繰り返すと思います。 本当に残念なのですが。 別に歴史と言われるものに、自らの意志があるわけではなく、集団としての意志がそうさせるのです。 このような過ちを繰り返さないようにするためには、事実としての歴史を常に思い起こしていくことが必要なのです。 とくに日本のように過去の事実を歪曲して考えたり、歴史教育をないがしろにしている国においてはなおさらのことです。

  痛い目に遭うことを何度も繰り返すのは、愚の骨頂です。 経験は、そこからなにかを学ばせるためにあるのですから。 学ばない限りは、同じ失敗と同じ苦しみを繰り返しながら生きるしかないのだと思います。 そして、自信を喪失していくのです。 社会や相手を恨んでしまうのです。

  問題は何回痛い目に遭えば分かるのかだと思います。 何回痛い目にあっても、なにも分からない、なにも分かろうともしない人もいますが。 こんな人は例外です。

 自分のことを書いているに過ぎませんが。

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