周囲の期待に応えすぎようとはしていないか

 私たちは周囲から期待されることによって、自分の存在の意味を見いだしていると言えます。 本来は自分の期待に自分が応えることによって、自分の存在の意味を実感することが一番必要なのですが、これは非常に難しいことだと思います。 だから、次善の方法として他人の期待に応えることによって、自分の存在を確認しようとするのだと思います。 自分が期待されなくなるということは、自分の存在の意味を失うことにもなります。 とくに多くの日本人は、欧米の人に比較してこの傾向が強いと言えます。 なぜそうなったかについては、ここでは触れません。 歴史や宗教や哲学といった総合的な考察が欠かせないと思うからです。

  周囲の期待に応えることには、ふたつの面があるのではないでしょうか。 ひとつは他の人の役に立つことによって、相手に認めともらおうとすることです。 もうひとつは、他の人に迷惑をかけることによって、相手に認めてもらおうとすることです。 後者に入るものとしては、暴走族などが好例だと思います。

  周囲から期待されることによって、自分の人生の意味を見いだすということは、はたして正しいことなのでしょうか。 ここで言う「正しいこと」とは、そのことによって本当の生きる意味やよろこびが見いだせるのかということです。 私はこれまでに幾度となく周囲に振り回されない生き方の必要性を訴えてきたことと、真正面から対立することではありませんか。 この不況のさなかにあって自分が会社を支えてきたと自負していたのに、リストラにあって職場を追われて、あなたが会社にいなくなってもなんら支障を来さないのをみたら、あなたは自分の存在を考え直さなくてはならないでしょう。 こんなときには、あなたのすべてが、生きる意味のすべてが音を立てて崩れていくのではないでしょうか。 それは周囲の期待を、自分の生きる意味にしたことに原因があるのではないでしょうか。  

  本当の生きる意味とは、自分以外に求めるものではなく、自分の中に求めなくてはならないものだと思います。 生きる意味を自分の中に求めることは、つらく苦しいことなので、多くの人は自分以外のところに求めるのだと思います。 ありのままの自分を知らなければ、自分の中に生きることの意味を見いだせないからです。 自分の外に生きる意味を見いだしたとしたら、はたしてそれは本物かどうか疑ってかかる必要がありそうです。 なぜなら、この世の中のすべてのことの出発点は、自分以外にはあり得ないからです。 ありのままの自分を知ることは、多くの人にとっては恐ろしいことなのです。 多くの場合ありのままの自分を知ることによって、それまでの価値観の多くの部分が崩壊の危険にさらされるからです。 人間はこのことを直感的に知っているからこそ、ありのままの自分を知るのを避けようとするのではないでしょうか。 

  ここで私の言っていることを誤解されると困るのでことわっておきますが、周囲の期待に応えようとすること自体が問題だと言っているのではありません。 問題はその動機にあるのです。 周囲の期待に応えることが、心の底からその人にとって喜びになっていて、またその期待に応えることができるのなら、なにも問題にすることはないのです。 問題とすべきは、他人に気に入られようとか、他人に認めてもらおうとして、自分の実力以上に背伸びをして期待に応えようとしていないかということなのです。 そのような背伸びは、自分のできもしないことまで引き受けてしまい多くの場合自分が生きることを苦しくし、相手にも迷惑をかけてしまい、結果として自分の信用を失うことになるからです。 このことについてはほかにも書いてありますので、そちらを読んでください。

  自分が考えているほど周囲は、あなたに期待していないことが一般的には多いのではないでしょうか。 自分でそう思いこんでいるだけのことが多いように思います。  とくに会社などの組織は、個人プレーではなく組織として機能しているので、普通はだれかが欠けてもそれを補う人が用意されているのが当たり前なのです。 そのことを思い違いして、自分がいなければ会社は、部は、課は動きがとれなくなるとは思い上がりも甚だしいし、組織というものの理解が足りないのです。 一人ひとりに職務分担というものがあって、各人がその分担をこなせば組織は支障なく機能するのです。

  これは個人生活についても言えると思います。 夫は一家の主としての、主婦は主婦としての分担をこなせば家庭はうまく機能するのです。 お互いの持ち分を犯すからよけいなもめ事が発生するのではないでしょうか。 嫁としゅうとの問題にも同じことが言えるのではないでしょうか。 かくいう私も長男で、嫁としゅうとの問題はよそ事ではないのですから。 

  話は少し本筋からそれたので、話を戻します。 自分の実力以上に、自分が生きることが辛くなるほどに周囲の期待に応えていると、うまくいっているときにはなにも問題にはならないのですが、ひとつつまずくとすべてが生きることの障害となってのしかかってきます。  自分をよく見せようとして周囲の期待に応えていると、失敗は赦されなくなるのです。 失敗は周囲から冷たい目で見られる原因になりますから。 失敗が赦されないということは、無理を重ねる原因にもなります。 本当の自分を隠して、八方美人になって振る舞うことにもなります。 そして心の底に不安や相手から非難される恐怖や、相手の無理解への恨み、そして自分自身に対する不満までもが無意識のうちにたまっていきます。 その結果心を病み、そして肉体までもむしばんでいき、明朗活発な生活を送ることができなくなってしまうのです。 相手に対する不満は耐えることはできても、自分自身に対する不満はぶつるところがないからです。 自分自身に対する不満をぶつけるところのないことが、心を病む最大の原因になるのです。 だから感情のはけ口を持っているか、持っていないかということは非常に重要なことなのです。

  いまつらくて仕方のない人、心を病んでしまっている人は、果たして自分の感情をぶつけるところや相手があったでしょうか。 たとえあったとしても、自分の感情を理解してもらえたでしょうか。 親から受け入れてもらえたでしょうか。 これは決定的に重要なことです。

  なぜそうなるかと言えば、自分以外のことを生きる支えにした心の弱さに原因があるのです。 自我が確立していないために、自分の評価は自分で下すのではなく、周囲からの自分に対する評価をそのまま自分自身の評価にしてしまうからです。 心を、精神を鍛えるためにはどうすればいいか。 それは幾度も書いてきたように、現実から逃げないでありのままの自分を見つめ、なにごとも積極的に考えて、そして経験を通して体で覚える意外に方法はないのです。 だから現実から逃げることは、そのときは楽をしたつもりでも人生はどこかで帳尻を合わせるようにできていると思わざるを得ません。 どうせ経験しなければならないことなら、若いうちに経験しておいた方が、その後の役に立つとは思いませんか。 逃げて、逃げて、逃げ回って、みじめな最後を迎える方を選びますか。 好きな方を選べばいいと思います。 後悔するも、しないも、自分次第なのですから。

  自分はどこからどこまでであれば周囲の期待に応えられるのか、その限界をはっきりさせておき、それ以上の要求には応えられないことを、相手に明確に伝えることが生きることを楽にしてくれるはずです。 人としてやらなければならないことや、できることまでをことわれと言っているのではありません。 周囲の期待に応えられるように努力することは当然なのですが、できもしないようなことまで引き受けてはいけないと言っているのです。 周囲の期待に応えられることと、応えられないことがあるのです。 そしてここで大切なことは人にはそれぞれに得意、不得意があり、能力にも差があるのですから、そのことをよくわきまえて行動することです。 このことを無視して引き受けてしまうから、生きることが苦しくなってしまうのです。

  人それぞれに歴然とした差があるという事実を見逃してはならないのです。 差は差であって、差別ではありません。 差は厳然たる事実であって、差別は恣意的なものだと思うのです。 事実と恣意的なこととを区別することも、生きていく上で(とくに人間関係をスムーズに運ぶ上で)重要な能力のひとつです。 人を差別することはいけませんが、差を認識して人をうまく使うことは大切なことなのです。

  周囲の期待に応えすぎようとした理由の多くは、自分の実力以上に自分をよく見せようとしたことにあると思います。 くだけた言葉で言えば、世間体を気にしすぎたことに原因があるのです。 意識的に他人によく思われようとしなければ、生きることはそんなに難しいことではなくなると確信します。

 意識的に自分がよく思われようとすることは、自分に自信を持てない証拠だと思うのですが、考えすぎでしょうか。

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