性格は周囲の目によってつくられる

 人間の性格が生まれつきのものなのか、あるいは後天的なものかについては、学問的に大いに議論のあるところだと聞いています。 とくに最近の科学の発達によって、遺伝子がすべてを決定するという議論も支配的になってきているそうです。 私は科学者でもなければ、心理学者でもないので、ごく一般的なこととして自分の経験に即して考えていきます。   性格が先天的か、後天的であるかを議論したところで、それで自分の性格が変わるわけではないのです。 私たち凡人にとって必要なことは、学問的にどうのこうのではなく、自分の性格を変えることができるかどうかなのです。

  確かに遺伝子レベルで親から受け継いだ性格があると思いますが、実際には性格は環境によって大きく左右されるものと思います。 多くの人が「自分の性格は変えられない」と思い込んでいるようですが、意識的に変えることは難しくても、知らず知らずにうちに人間の成長とともに変わってきているではありませんか。 私に言わせれば、性格は変えられないのではなくて、変えようと思えば変えることができるのです。 どれほど変えることができるかは、その人の決断や努力ひとつにかかっていると思います。 性格は変えられないという常識が頭にこびりついてしまっているから、なかなか変わらないのだと思います。 簡単なことでないことは、分かっていますが。

  一言で言えば、「性格は他人の目によってつくられる」と思っています。 言い換えれば、他の人が自分をどのように見るかを気にすることによって、その人の性格が形作られていくと思うのです。 「こんなことをしたらいやがられるから、これはしないでおこう」、会社においては「これをすれば、こうすれば成功間違いなしなので、自分の評価はよくなるだろ」、「こうしなければ恋人に嫌われるかも知れないから、自分はしたくないのだけれども恋人にきらわれないためにこうやろう」、「これは言わなければならないのだが、言うと自分の立場が不利になるので言わないでおこう」、このようなことの積み重ねこそが、その人の性格となっていくのだと思います。 もちろん、私の場合も例外ではありませんでした。 それは性格を変えようという意識的な行動ではなくて、無意識的にやっていることなのです。 八方美人になるのも、この典型的な例ではないでしょうか。

  ところが意識的に性格を変えることは、いままでの自分の心の在り方とは異なる在り方を選択することになるので、難しい問題になるのです。 はじめのうちは、なにをするにしてもどうすべきかをいちいち考えなくてはならないし、また嫌いなことでもやらなければならないので、意志が弱いと挫折してしまうのです。 そして「性格は変わらない」と言って、自分を騙して納得させてしまうのだと思います。 性格とは、それほどまでに自分の身に染みついたものなのです。 洗濯をしてみれば分かりますが、古いシミほど落ちないものですね。 性格もそれと同じことではないでしょうか。     
  性格は「他人が自分をどのように見ているか」と思っている自分の心がつくりだしているものだといいたいのです。 意味がなんとなく分かりにくいかも知れませんが。 だからこそ「他人は自分をこのように見ているはずだ」と思い込んでしまえば、それに対応して自分の性格がつくられていくのです。 このことは、とても大切なことだと思います。 「ものは考えよう」ということわざがありますが、考え方を変えることさえできれば性格も変えることができるはずです。

  自分が他の人をどのように見ているのかによって、自分の性格の多くが決定されるといっても過言ではないと思います。 私はこのホームページのなかで何度も繰り返していることなのですが、「ものは考えよう」という言葉の持つ意味はあまりにも大きいのですが、現実には、自分をごまかすために使われることが多いようです。 いま生きることが苦しくてどうにもならなくなっている人は、考え方を変えることはできませんか。 (考え方を変えることができないから、苦しんでいるのは分かりますが。)  親がにくくて仕方のない人は、親を好きにならなくてもにくまないことはできませんか。 むずかしいことなのですが。 でも、その難しいことを乗り越えなければ、生きる希望は見つからないと思います。 時間がかかってもいいですから、自分の考え方を変えてみることはできませんか。

  「他人は自分のことをこのように思っているはずだ」と思い込んでいる人の生き方は、苦しくなってあたりまえなのです。 実際には相手があなたをどう思っているかは、相手に確認してみなければ分からないのですら。 ひとり相撲をとっているから、生き方が苦しくなるのです。 実際には存在もしない相手を想像して、ひとりで苦しんでいるのだといったら怒られるとは思いますが。 

  だからこそ、相手を見極める目を持つことが必要なのです。 相手を見誤ってみてしまうから、自分が苦しむのです。 相手が自分の劣等感を隠すために偉そうなことばかり言っているのに、立派な人だと思い込んで、その人に追従や盲従してしまうから苦しくなるのです。 もっと相手を見極めることができれば、生きることは苦労はあっても、そんなにつらいものにはならないと思っています。 

  自分の性格がいやでたまらないという人は、いままでの考え方を変える必要があります。 いままで自分がまとっていた服装を変えることが必要です。 従来の考え方に固守するかぎり、性格を変えることはできないでしょう。 捨てることのできないものを捨てる勇気と努力が必要だと思うのです。 現状を変えないで自分の性格は変えられないのです。  

  これらのことから言える重要なことは、相手が自分をどのようにみているかを正しく理解できないと、相手を逆恨みして殺人を犯したり、あるいは相手を攻撃できない人、自己主張できない人は自分の殻に閉じこもって、社会との接触を断ってしまうようになりがちだということです。 いま引きこもっている人は、このことをよく考えて欲しいのです。 自分は相手を曲解しているのではないかと。 この誤解からすべての不幸が始まるのではありませんか。 いま若者の犯す犯罪の多くは、このことに起因しているのではないでしょうか。

  相手を正しく理解することは、とくに若い人にとっては難しい社会環境になっているので、苦しさから逃げるために安易に社会との接触を断とうとしているのだと思います。 親はそれを教える義務があるのです。 権利を振り回すだけが、親のやるべきことではないのです。 だから若者はちょっとしたことで傷ついてしまうのではないでしょうか。 社会や人間を見る目を養ってくれる場がないからです。

  あなたが相手をどのように考えようとそれは自由ですが、そのことによって相手を物理的にも、精神的にも傷つけてしまったり、または自分をいじめつけたり、自分を責めたり、引きこもったりしていませんか。 考えるだけならなにをどう考えようと自由ですが、それによって自分や家族や恋人や友だちがつらい目に遭うとしたら、それは許されないことなのです。 自分だけが苦しむことだって、許されないことだと思います。 自分に対する大きな犯罪だと思うからです。 人の心を理解することは、相手のためではなくて自分が生きやすくなるためには欠くことができないのです。

  現実に体験することが少なければ、その人の人間としての中身は薄いものになり、結局は人間の心理をより実体に即して考えることができなくなるのです。 ここに現実とのギャップが生じてきて、その解決方法も分からないので犯罪に走って自分の心の整理をつけようとするのです。 その一方で現実との接触を断つ、いわゆる引きこもりによってしか問題を解決できない人もでてくるのです。 

  現実をどのように理解するかによって、自分の性格は変わらざるを得ないのです。 現実を認めようとしないから、自分だけの世界に閉じこもらざるを得ないのです。 親は子供に学校の知識だけでなく、このようなことを教える義務があると思います。

  性格は「他人が自分をどのように見ているか」という考え方一つによって、大きく変わらざるを得ないのだと思います。 と言うことは、自分は相手からどのように思われたいかによって変わると言うことです。 自分は相手に好かれたいという意識が強ければ、八方美人にならざるを得ないのです。

  逆に相手に好かれることも大切だが、自分はもっと自分に忠実に生きたいと思えば、自立心のある独立独歩の人間になれるのだと思うのです。 自主性のある積極的な人間になれのです。

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