なぜ、画一的な人ばかりになってしまうのか

   現代社会は個性が大切だといって個性を大切にしているわりには、金太郎飴のような人たちばかりができてくるのはなぜなのでしょうか。 金太郎飴をご存じない方のために。 金太郎飴とは七五三のときに売っている千歳飴のです。 あの飴を輪切りにしてみると、どこを切っても金太郎さんの顔がでてきます。 それとおなじように社会のどこを見渡しても、同じように見える人が多いということのたとえです。 自分も個性的になろうとして(精神的にも、ファッションも、持ち物も、すべての面において)、結果的には画一的とも思えるような人になってしまうのは、どうしてなのでしょうか。 

  ここでは歴史的な国民性ということは抜きにして考えます。 そうしないと、問題が広くなりすぎるからです。

  これには次のような理由が考えられるのではないでしょうか。

大人も子供も自我が確立していないので、自分の信念が持てない
       ・ 社会の常識に従わざるを得ない
自分なりの考えがないから、社会の流れに流されざるを得ない
はっきりと「ノー」と言う勇気がない
一人で苦しむのはいやだから、他人の後をついていく (そうすれば考える必要はあまりなくなる)
本当の意味での自己表現が苦手だから、安直な方法として大衆の考えに追随する
       ・ 最後には迷子になってしまい、自分を見失うことになる
少数派になることが怖い
社会の評価を不必要なまでに気にする
       ・ このことの弊害は幾度となく述べてきたつもりです
親も無意識うちに上記のような子供を育ててしまう
日本社会は「和の精神」を重視する社会で、反対意見は正しくても認めたがらない
       ・ 「和の精神」についての誤解については、前述したとおりです
       ・ 「和の精神」とは非常に恐ろしいものなのです (私の誤解なのでしょうか)
協調ではなく、妥協を重ねる社会だから「長いものには巻かれろ」となってしまう
       ・ これも「和の精神」の悪い面の表れだと言ったら、みなさんはどう思われますか 
「優劣と相違」の違いを混同するから、すべてを優劣で判断して人間の価値を決めようとしている
       ・ だから「違いのない人間」になろうとする
       ・ 言葉を換えれば優れた人になろうとし、優劣が無意識のうちに価値判断の基準となってしまう
       ・「相違」と言う言葉の意味を理解できない
多数の意見と同じ考えを持っていれば、精神的に楽になれる
       ・ 良くも悪くも少数者の考えでいると言うことは精神的には大変な負担なのです
良くも悪くも、日本は同質化社会である

  個性とは奇抜な服装や行動をして、目立つことだと考えている人が多すぎるのではないでしょうか。 個性とはしっかりとした自己を形作ること、自分に似合ったものをつくることではないでしょうか。 その結果が他の人と同じように見えても、いっこうにかまわないと思います。 それで個性が失われたわけではないのです。 自分で努力した結果が個性を作り上げたのですから、その人なりの個性なのです。 ここで大切なことは、猿まねではなく、自分で努力するということです。  最近の親たちは子供に個性的になってほしいあまりに、個性づくりに夢中になっているようです。 個性はつくろうと思って作れるものではなく、結果としてできてくるものだと思うのです。 この意味では子供が小さいときから、個性個性と騒ぎ立てすぎることは、個性を磨いているのではなく、かたわの人間(あるひとつの型にはまった人間)を作り出すことが個性を伸ばすことと勘違いしているように思えます。

  個性は常識のある人間に育って、あるいは育つとともに自然に形作られるものであり、小さいときに親から押しつけられたような能力を果たして個性と呼んでもいいのでしょうか。 個性は身につけるというよりは、自然に努力する過程で身についていくものではないでしょうか。 子供が幼いときから個性を磨こうとするから、結果的に金太郎飴のような人間が作られるのだと言えます。 それは意識するとせざるとに関わらず、親の価値観を子供に押しつけたからです。 その親の価値観は多くの場合、その時代の社会の一般常識によって規定されているものなのです。 

  だから、金太郎飴になってしまうのです。 個性は自分でものごとを考え、責任をとれるようになってから、考えても遅くはないと思います。 

 人間は自分で考える以上に、社会の制約を受けているものだと思わずにいられません。 かく言う自分も例外ではないのですが。

  他のページにも書いたことなのですが、自分が一生懸命に努力して個性を磨いた結果が、社会の常識に似ていたとしても、だれかに似ていたとしても、それは「他人をまねた」のではなくて個性だと思います。 要は自分で納得できる生き方を個性と呼ぶのだと思います。 自分の生き方が社会の常識やだれかと似ていてとしても、結果論に過ぎないのではないでしょうか。 意識的に社会からはみ出そうとする生き方を、個性的と呼んでいいのかどうか疑わざるを得ません。

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