自分の信念のために身動きがとれなくなってはいないか

 自分の信念を持つことは大切なことですが、信念の持ち方を間違うと思わぬ苦労をすることになります。 また信念がなければないで、これまた悩みや苦労が増えてきます。 まったくもって困ったものですね。 ここでは信念を持つことによって、あるいは自分の考えにしがみつくことによって、生きることがどうなるかを考えてみたいと思います。

  世の中には自分勝手な人、自己中心的な人、ものわかりの悪い人などさまざまな表現で言われる人もいます。 そのような人はものごとの道理をよくわきまえていないか、自分を律することのできない人が多いと思います。 ものわかりの悪い人とは、なにを言われても自分の価値基準でしか考えられず、相手の立場や考えを理解はするのだけれども、面と向かっては相手を認めようとしない人のことです。 すなわち、相手の理屈や道理は心の中では認めていながら、自分のプライドや面子にこだわって表面的には認めようとしない人を、ものわかりの悪い人というのではないでしょうか。 もちろん本当にものごとを飲み込めない人のことも、ものわかりの悪い人と言います。 

  これも別のところに書いたことなのですが、世の中は自分にしがみつけばしがみつくほど争いごとが増えて、生きづらくなってきます。 なぜなら自分を認めさせるためには、相手を討論や議論で説き伏せ、または実力で証明しなければならないからです。 生きることが苦しくなってくれば、自分に不必要なまでにしがみつくような人は、その原因を自分に求めるのではなく、相手に求めることが多くなります。 いわく、いま自分が出世できないのは相手が自分の重要性を認めないからだ、いま自分がしあわせになれないのはあいつのせいだ、自分が失敗したのはあいつがしくじったせいだなど、すべてのことを責任転嫁するのです。 いま自分が不遇を囲っているのは自分の考え方ややり方のせいではなく、相手のせいなのだと考えるのです。

  このことを自分の生活信条ともいうべき信念に置き換えてみると、いま自分がおもしろくないのは、いま自分が受け入れられないのは自分の考え方が社会に合っていないのではなく、社会の考え方が悪いからなのだとなります。 たとえ社会がおかしいとしてもその現実を受け入れて、そこから社会の変革を目指して行動する方法もあるのですが、ものわかりの悪い人はそうは考えないのです。 自分の信念を絶対化してしまうと、悪いこと、おかしいことの原因はすべて自分以外にあることになります。 当然社会を攻撃的にみるようになってしまうでしょう。 自分を正当化すればするほど、生き方は先鋭的にならざるを得ず、自分の信念にしがみつかざるを得なくなるのです。 これが自分の信念のために身動きがとれなくなるということです。 これは「純化すると先鋭化せざるを得ない」と同じことです。

 充実した人生を送るために信念が必要なのか、信念のために生きているのか、はっきり自覚することが必要だと言えます。 世の中には自分では意識していなくても、信念のために生きているような人も少なからず見受けられるようです。 そのような人は社会との折り合いがうまくいっているでしょうか、そんな目で眺めてみると新たなことが発見できそうです。

  残念ながら、この社会は正しいこと(なにが正しいかが難しいのですが)、真実でさえあれば受け入れられるのではなく、むしろ正しいことや真実なことは受け入れられにくくできているのです。 それが現実です。 現実は現実以外のなにものでもなく、それには正しいも、正しくないもないのです。 ただそのような現実が存在するだけなのです。 現実が正しいか、正しくないかは別の問題なのです。 だから誠実に生きようとする人は苦労するし、その苦労に耐えかねて挫折し、安易な方向に走ってしまう人も数限りがないのです。 しかしながら、世の中は苦しみがあればこそ喜びがあるのだとい言うことを忘れてはならないと確信します。

自己中心的に生きようとすればするほど失うものが多いのですが、一見自己中心的に生きることは自分に安らぎをもたらしてくれるように見えます。 しかし、それは幻想ではないでしょうか。 自己中心的な生き方は、物質的な豊かさはもたらしてくれるでしょうが、心の安らぎまでもたらしてくれるでしょうか。 自己中心的な生き方は物質的には富むことはあっても、それは不安に支えられた、不安と紙一重の生活ではないでしょうか。 いつ他人に力で横取りされたり、騙されてなくなるかのおびえと一緒の生活なのです。 「魔法の言葉」を思い出して欲しいのです。 利己的な人は相手の利益になる範囲において、相手から当てにされることはあっても、信頼されることはないのです。 利用価値がなくなれば、捨てられるだけです。 社会は多くの場合、自己の利益のために結びついていることが一般的なので、利益にならなくなれば見捨てられて当然なのです。 この当然のことが分かっていないための悲劇が多すぎます。 新聞の三面記事やテレビのワイドショウが、おおはやりなのをみても分かると思います。 騙したの、騙されたのと大騒ぎではありませんか。

  自分の信念のために自分自身の身動きがとれなくなると社会や相手を恨み、生きる目的が社会や相手への復讐になることもあります。 自分に責任があるのに相手にばかり責任を押しつけていると、だれからも信頼されなくなることはいまさら言うまでもないことです。

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