人生は「やってみなければ、分からない」

 生きることに意味が感じられなくなって悩むことは、だれにでもあることです。 「生きることになんの意味があるのか」という答は「生きてみなければ分からない」、「やってみなければ分からない」としか言いようがありません。 人生においてはなにごともそうですが、意味は生きる前から、やってみる前から用意されているものではないと思います。 事前に頭では観念的に理解することはできますが、本当の意味はやってみなければ分からないと思います。 生きることの意味は、自分でつくりだしていくしかないと思います。 そして意味が見つかれば、生きることの充実感が得られ、その充実感が新たな意味を人生に与えてくれるのではないでしょうか。 人生は、この連続ではないでしょうか。 

  人間は、自分で経験したことのないことは分からないのです。 分からないことを頭の中だけで求めようとするから、行き詰まってしまうのだと思います。 大切なことは頭の中だけでは分からないのです。 自分の感覚、感情(五感)を通して体で体験することが大切なのです。 生きることの意味は他人に与えてもらうものではなくて、自分でつくりだしていくものだと思います。 苦しんでいる人は自分がどれだけ現実に積極的に立ち向かっているかを、考えてはいかがでしょうか。 多くの場合は、現実から逃避しようとしているのではありませんか。 生きる意味は自分の体験を通して、自分でつくりあげなければならないのです。 だから生きることはつらく、苦しいことなのです。 なんでも自分で新しいものをつくりだすことは、苦しいことなのです。 その苦しみの陰に喜びがあるのではないでしょうか。 

  生きることの意味を観念的に見つけてから生きようとするから、つまり理屈に現実を合わせようとするから道に迷うのではないでしょうか。 現実を理屈に合わせようとするから、どうにもならなくなるのではないでしょうか。 現実をゆがめて解釈しようとするから、問題がややこしくなるのだと思います。 現実を直視して、生きることの意味を自分でつくりあげようとすれば、道に迷いながらも迷いの世界から抜け出せると信じます。 迷い、苦しみや悩みなくして、本当の生きる意味はつくりだせないのです。 残念ながらというか、悩みや苦しみは人生の意味をつくりあげるには、必要かつ欠くことのできないものだと思います。 「自分だけがなぜ苦しまなければならないのだ」と苦しみを訴えることはもっともなことなのですが、苦しみや悩みの意味が納得できなければ、喜びや楽しみの本当の意味も分からなくなってしまうのです。 この件に関しては「この世の中はすべてが相対的だ」を読んでください。

  考えることと行動することのバランスが必要なのです。 どちらか一方に偏ってしまうから、問題解決の糸口が見つけにくくなってしまうのです。 そして日本人の多くは知識偏重に陥っているので、ものごとを理性や理屈だけで考えようとするから、出口がますます見つからなくなっているのだと思います。

  私の過去にも他人には言えないようなことが数多くありましたが、いまはそのひとつひとつが役立っていると思います。 このホームページをつくっているのも、過去の苦しみが土台になっています。 人生に無駄はないのです。 過去を無駄にしてしまうかどうかは、その人の考え方ひとつだと、しみじみと思い知らされています。 人生は考え方ひとつで同じ体験が役立つものともなるし、逆につまづきの石になることもあるのです。 どうせなら、過去を役に立つものにしたいですね。 失敗は成功の母と言いますから。 順境の中からは人間は学ぶことが少ないのです。 順境はかえって人生の妨げになることさえあります。 自信過剰になったり、人を見下す原因になることも多いのです。 逆境こそが人間を育ててくれるのです。 逆境の中にこそ宝物が隠されているのです。 いまはそう確信できます。 悩んでいるときには、間違ってもそのように考えることはできませんでしたけれども。 いま苦しんでいる人に向かって、「悩みや苦しみは人間の成長にとって必要だ」といくら強調しても分かってもらえないと思いますが、悩みや苦しみが人生にとって必要なことだと言うことは、結果的にしか分からないのです。

 このことは、悩みや苦しみを克服できた人にしか分からないのです。 人生の喜びは、挫折を克服した人にだけ与えられる特権なのです。

  「人生はやってみなければ分からない」、「生きてみなければ分からない」のです。 「死にたい」と言っていては、できることもできなくなります。

  考えただけでは現実を変えることはできません。 やらなければなにも変わらないし、やってみればなにかは変わるのです。 ただし、良い方向に変わることもあるし、悪い方向に変わることもあるのです。 それでも、やってみなければ人生の意味は分からないのです。 ほんのわずかづつでも。 人生も同じことで行動しなければ現状を変えることはできないのです。 人生は科学とは違うのです。 理屈だけで割り切れるものではないのです。 いま苦しんでいる人は思いきって行動してみることです。 行動すれば自分の考えがどのように変わっていくのかを体験することです。 行動すると言っても、「人を殺す経験をしてみたかった」というのは、いけませんね。   

  不安や恐怖心をなくす最良の方法は、行動することです。 行動に移してしまえば後戻りができなくなるので、やるしかなくなり度胸がついてくるのです。 この場合の度胸は「開き直り」といってもいいでしょう。 そしてやるからには、少しでもよい結果がでるように全力を尽くすので、結果をあまり心配する時間もなくなってしまうのです。 人の心に二つ以上の感情は、同時には住めないのです。 異なる感情が同時にあるようでも、きわめて短時間をとってみればふたつの異なる感情は共存できないのです。 一生懸命努力していれば、不安が住み着く場所がないのです。 最終的には、こうして不安や恐怖心をぬぐい去ることができると経験的に確信しています。

  考えることも大切ですが、行動を通して社会や人間を理解することはもっと大切なのです。 行動しなければ自分を取り巻く環境は変わり様がないのです。 自分を変えることができるのは、自分しかいないのです。 この自明なことを忘れてはいないでしょうか。 だれかが自分を助けてくれると思っているのではないですか。 自分で自分をどうすることもできないと悩んでいる人は、思い切って行動することです。 行動しなければなにも変わらないのはあたりまえなのです。 行動しないからなにも変わらず、なにも変わらないから無力感に襲われてしまうのです。 なんでもいいから、ささいなことから実行してみることが大切だと思います。

  まずは、やってみることです。 なにをするかは各人の自由ですが、ささいなことから実行することです。 私は「ささいなことからはじめる」ということを、とくに強調したいのです。 無力感に悩んでいる人は、大きなことからやろうとしてはいけません。 ちょっと努力すれば自分にもできそうなことからはじめてみましょう。 はじめはそのささいなことの達成感が必要なのです。 いままではできなかったささいなことができたという満足感を味わうことが大切なのです。 他の人にとってはとるに足らないささいなことでも、じぶんにとっては努力を要するということもあるのです。 恥や世間体を考えて、自分の不相応な大きなことからはじめようとするから挫折し、ついには立ち直れなくなるのです。 自分のあったことからはじめることです。

  たとえば、次のようなことからはじめてはどうでしょうか。

家族に挨拶をする
一人暮らしだったら、鏡に向かって「おはよう」と言う
食堂やレストランで食事をしたときに、「ごちそうさま」と言う
レジでお金を払うときに、「ありがとう」と言う
食事を並べたり、後かたづけをする
コンビニの弁当ばかり食べているなら、たまには自分で食事をつくる
車内で困っている人に席を譲る
挨拶をはっきりと言う
いままで先延ばししていたことを、先延ばししない
できない約束はしない
    ・ できもしない約束をすると、後で自分が苦しむことになります
断るべきときには、はっきりと断る
断るときに、なにかと理由を付けない
    ・ これは相手を騙しているのではなくて、自分を騙しているのです
閉じこもって自分の部屋から出られないのであれば、自分のへやのなかでもできることをやる

  このように考えてみると、なにかひとつくらいはあなたにもできそうなことがあると思います。 一度に複数のことをしようとしてはいけません。 一度にひとつづつ。 はじめはぎこちなくてもいいですから。 

  常識的な考え方とは言えないかも知れませんが、行き詰まったら行動することです。 どうにもならなくなって考えてばかりいるから、悪い結果だけを予想するようになり、本当になにもできなくなるのです。 やってみなければ、結果は分からないのです。 でも結果を考えてしまい、恐ろしくてなにもできなくなるという人も多いと思います。 むしろこのホームページを読んでくださっている人の中には、そのような人が多いと推察いたします。 そのような人は、はじめから人生にとって大切なことを決断しようとするから、なにも決断できないのではありませんか。 いままでささいなことも決断できなかった人が、いきなり大きなことを決断しようとすれば決断できなくなるのが当然でしょう。 人生は、一足飛びに変化することは非常に少ないのです。 多くのことは、ささいなことの積み重ねかです。 自分の夢を実現できたひとも、地道な努力の積み重ねが大きくなったものです。 「ローマは一日にして成らず」とも言います。 「千里の道も一歩から」とも言います。

  いま「自分はどうなもならない」と言って苦しんでいる人は、大切なことを忘れているのではないでしようか。 それは従来の考え方ややり方ではどうにもならないということであり、考え方ややり方を変えることができればなんとかなるのではないかということです。 過去にこだわってしまったから、どうにもならないのではないかということです。 過去をすてる、いままでの自分を捨てることができれば、出口が見えてくるのではないかということです。 これが自分を許すということではないでしょうか。 自分で自分を許せないひとは、過去のわだかまりを捨てられないひとだと思うのです。 未知の世界に飛び込む勇気が必要なのです。 その勇気を持つためには、ささいなこと、なんでもないようなこと、自分にできることからはじめることです。 

  かっこのいい言葉で言えば、過去と決別することです。 過去の自分と決別することは、今までの自分を受け入れる、今までの自分を否定しないということです。 そんなことができるかと思われるでしょうが、嘘だと思うなら試してみてください。 過去と決別できれば、自分を受け入れられますから。  「過去の自分は情けない自分だったが、これからはそんな自分は止めよう」ということです。 自分が逆境に陥ると責任を他の人に押しつけたくなるものですが、それで問題は解決しないのです。 自分の失敗を他人せいにすれば感情的には収まりがついても、問題は解決していないのです。 感情的に納得することと問題が解決することとは別問題なのです。 他人を許せないと思っていたことも、実は他人を許せないのではなく自分を許せない場合も多いのです。 つまらない自尊心がそうさせないのです。 自分を許すことができれば、意外と他人を許すことができるかも知れません。 

  自分の親や配偶者を許せないで困っているひとも、実は自分を許せないのに、それが認められないので相手を許せないと問題をすり替えてはいませんか。 冷静になって考えてみる必要があるかも知れません。 

  やってみもしないで「ああでもない、こうでもない」と頭だけで考えようとするから、不安や恐怖心だけが先にたってしまうのです。 私だって頭だけで考えていたら、ものごとは悪い方ばかり考えてしまうかも知れません。 そしてなにもできなくなって、無力感にさいなまれているかも知れません。 行動する勇気を持つことです。 行動する決断をすることです。 それには結果はあまり気にしないことがなにより必要です。 ベストを求めるのではなく、ベターを求めることです。 それができれば、いまの苦しみからは解放されると信じます。 どちらの生き方を選ぶかは、各人の自由です。 最期の最期は自分の決断しかないのです。

  自分が変われば世界は変わるのです。 自分の考え方を変えないで、相手だけを変えようとすることは不可能とは言いませんが、苦労が多い割りには成果は少ないはずです。 いまの若者の多くは、自分を反省しようとしないで、相手に要求することだけが多すぎると思います。 自分なりに自分を反省して、自分を変えることが生きやすくなる秘訣ではないでしょうか。 これは決して敗北主義ではなく、人生の知恵だと思います。  自分を変えることは、自分の価値や存在感をなくすものではありません。 相手や社会を変えることができなければ、自分の主義主張を変えないで自分を変えていくしかないのです。 自分を変えなければいつも相手や社会と喧嘩ばかりしていなくてはなくないのです。 もしくは閉じこもってしまうしかなくなるのです。 世の中にはいつも喧嘩を売って暮らしているような人もいますが、そのような人は心の強い人でもなければ、自分に自信のない柔軟性のない人だと思います。 

  「人生に逃げ場はない」というところにも書きましたが、生きていく上において一時的に現実から逃げることができても、いつかは捕まって苦しまなくてはならないのです。 多くの場合苦しくなると、

まず問題を解決しようとする
解決できればいいのですが、解決できないと簡単に挫折する
現実から逃げようとする
しかし現実から逃げ切れないことが分かる
ここで対応が二つに分かれると思います
    ・ いままでの従順な態度を一変させ攻撃的になる  (きれてしまう)
    ・ 閉じこもってしまう

  人間はどうにもならなくなると(出口がなくなる)、⑤のどちらかの態度になってしまうのです。 だから自分で自分を出口のない状態に追い込んではならないのです。 いまの若者がすぐに切れるのも、閉じこもりがちになるのも原因は同じところにあると言えます。 自分なりに我慢を重ねて、ついに自分の限界に達したのです。 現実から逃げようとして逃げ切れないと悟ったときに、閉じこもるか、攻撃的になるかなのです。 本当の原因は、現実からに逃げようとしたことにあるだと思います。 

  仏教では「人生は苦である」といいますが、この場合の「苦」とは「人生は自分の思い通りにはならない」ということであり、お釈迦様の生きていた時代と現代でもそれは変わりないのです。 人生はもともと自分の思い通りになることは、例外なのです。 その例外をあたりまえと考えてしまえば、生きづらくなってもなんら不思議はないのです。 ここではこれ以上のことには踏み込みませんが。

人生は、簡単に自分の思い通りになるとという考え方が、自分を苦しめているのです。

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