災い転じて福とすることができるか

  人生には避けて通ることのできないことが、いっぱいあります。 逃げれば逃げるほど、苦しみや悩みが大きくなるとも書きました。 これについては「人生に逃げ場はない」を読んでください。 そして我々はそれらの避けることのできないことを通して、人間的に成長していくものだとも書きました。  日本のことわざに「わざわい転じて福となす」ということわざがありますが、まさにその通りです。 わざわいを教訓として、そこからなにかを学び取り、同じ間違いをしないようになれるのです。 この意味でも人生に苦しみや悩みは、なくてはならないものなのです。

  わざわいを転じて福とするためには、常に問題意識を持っていなければなりません。 これがこのホームページ全体の主題になっています。 いくら問題が起こっても、それに気がつかない人もいるし、気がついても逃げ道だけを探す人は大勢いるのです。 このような人にとって、わざわいはどこまで行ってもわざわいでしかありません。 このような人にとって、わざわいは苦しみや悩みのもとでしかありません。 わざわいの中に自分の生き方を見つけることのできる人は、しあわせな人だと思います。 これは結果論でしかありませんが。 つらくて、苦しいですけれども。 このような人にとっては、わざわいはいつかは感謝のもとになるはずです。 そのときは苦しくても、いずれはその苦しみに感謝するときがあると思います。 なぜなら、人間は経験によって大きくされる存在だからです。  

  私はクリスチャンではありませんが、聖書の「マタイによる福音書」にある言葉の中の「悲しんでいる人々はさいわいである。 彼等はなぐさめられるであろう。」という言葉の意味が、いくぶんでも分かったように思えるのです。 このことは「魔法の言葉」を読んでいただければ、分かると思います。 この世の中では「悲しみを知らなければ、本当の喜びも分からない」という真実が分かれば、悲しみは一時の通過点となるはずです。 そうは言っても悲しいことは悲しいことなのですが。 悲しいことが悲しく思えないとすれば、心に異常を来しているのです。 苦しみや悩みは人生の終着点ではないと思います。 「朝の来ない夜はない」のです。 耐えしのんでいれば、いつか夜明けはやってくるのです。 夜明けが早く来るか、遅くなるのか、それはその人の決断次第です。  災いが災いのままで終わる人になるのか、災いが感謝のもとになる人になるのか、それも一人ひとりの考え方と決断次第なのです。 人生が苦しみと理解するか、人生は意義あるものと理解するような人になるのか、それもこれも自分で決めることです。 人生のすべてのことは自分の周囲の人が決めてくれるのではなく、自分が決めることなのです。 たとえ周囲の人から多くの影響を受けたとしても、それでもなおかつ自分の人生は自分が決めることなのです。 

  相手を呪って自分の人生をだめにしてしまうのも相手のせいではなく、自分でそう決めたことなのです。 自分の身に起きたことを相手のせいにするから、人間的に成長できなくなるのです。 人間的に立派な人と、そうでない人はどこが違うのか、よく見比べることが必要ではないでしょうか。

  災いは、その試練によって自分が成長するためにあるのだと分かれば、生きる苦しみやつらさに立ち向かう姿勢がきっと変わってくるのではないでしょうか。

  災いは、あくまでも自分に降りかかったよけいなこととしか考えられなければ、災いや失敗からなにも学ぶことができないばかりか、相手や社会を呪ってしまい、自分で自分を破滅へと導いてしまうと思います。 恨んだり憎んだりすることで、感情的にはおさまっても、問題は何一つ解決していないのです。 難しすぎるくらい難しいことなのですが、恨みや憎しみからは人間的な成長は決して生まれないのです。

  相手を許す、相手を受け入れる、自分を許す(受け入れる)ことによってしか、生きがいはでてこないのです。 このことも、何度も書いてきたことです。 相手や社会を恨むのではなくて、その事実を自分の反省材料にすることが必要なのです。

  このことが人生の謎を解く鍵のような気がします。 私も、そうなれるように努力したいと思っています。

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