ものごとを優劣で判断するようになった

 ここは「他人との比較でばかり考えるようになってしまった」と似ています。 我々がものごとを比較する場合、すぐに善し悪し、好き嫌い、優劣、損か得かなどでばかり考えてしまいがちです。 ものごとの相違ということを、すぐに自分の価値判断で考えてしまうということです。 ものごとにはそれぞれに個性や特徴やくせといったことがつきものなのに、それを善し悪しとか、好き嫌いとか、優劣で判断することに問題があるように思います。 ウサギとカメの童話ではありませんが、ウサギは足が速い、カメは足がのろいのはどちらが優れていて、どちらが劣っているという問題なのでしょうか。 分かりやすいたとえだと思います。 我々は日常生活において事実をすぐに優劣で判断しすぎているのではないでしょうか。

  ただしウサギはカメよりずっと速く走ることができますね。 ただ、それだけです。 ウサギはカメより早い、それだけです。 これが事実です。 ここに優劣の判断はありません。

  すべてのものや、すべてのことに、それ自体でなければ持っていない特質があるのです。 その特質自体には、なんの価値もないのです。 我々の価値基準に照らして、はじめていいとか悪いとか、優れているとか劣っているとかの判断ができるのです。

  我々にとっての価値とは、多くの場合有益だから価値を認めることができるのですが、ただ存在するだけ、いるだけで価値のあるものもあると思います。 きれいな景色やペットなどは、そこにあるだけ、そこにいるだけで価値があるのではないでしょうか。 優劣だけで判断するから、ものの本当の価値を認めることができないということもあると思います。

  生きていくことを優劣だけで考えれば、自分に欠けているものだけが気になって当然です。 自分に具わっているものは当然のことであり、ないものだけが気になるものです。 あるものの価値を認めにくくて、ないものの価値を認めることは簡単なのです。 そうすれば自分は無力感に陥ってしまうでしょう。 常に自分は他人より劣っているかのように思えるからです。

  これと似たようなことで「差別と区別」ということがあげられます。 区別はものごとの違いであって、そこには価値判断はないのです。 同じことでも差別と言えばそこには価値判断が働いているのです。 生きていく上で基本的に差別することはよくなにいことでしょうが、区別して考えることは重要なことだと思います。

  人間はひとりひとり価値基準が違うのですから、自分は他の人と比較して違っているといって気にする必要はないのです。 その違いを有効に活用できるようにすることこそが、重要なのです。

 では、ものごとはなにを尺度にして判断すればいいのでしょうか。 これは、分かっているようで大変難しい問題だと思います。 世の中には、自分でしか分からない尺度というものがあるのではないでしょうか。 他人から見ればあきれかえるような尺度でも、自分にとっては大切な尺度もあるはずです。 だからこそ、多種多様な価値観が、この世の中に存在できるのだと思います。

 自分の感情、感覚、思いやりなどと言った、形のないものが大切だと思います。 いまはやりの言葉で言えば「絆」と言っても良いでしょう。 「共に」と言っても良いでしょう。

 思いやり、共感、感動、そのような価値判断が大切だと思います。 実生活で、そのような判断基準を当てはめることは、大変難しいことなのですが。 心のどこか、片隅にしっかりと持ち続けたいものです。

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