ひとつひとつのことに「ケリ」を付けられれば、自信は持てる

 私は以前「人生問題はどう解決するかより、どう対処するかが大切だ」と書きました。 そのことと密接に関連しますので、ぜひ併せて読んで欲しいと思います。

  そこに書いたことを要約すると、「人生の問題には相手があるので相手の出方によっては、どうしても解決できないこともある」ということです。 自分がどんなに解決したくても、ケリをつけたくても、できないのです。 それなのに、どのようにしてケリをつければいいのでしょうか。 矛盾もはなはだしいですね。

  自信をなくす最大の理由は、ものごとを先延ばししたり、その場しのぎをしてしまうことにあると思います。 要するに心の弱さにあるのです。 ものごとをその都度ケリをつけることさえできれば、心にわだかまりや不安がなくななり、それが自信につながるのだと思います。 達成感や充実感を実感できるからだと思います。 自分の心に充足感を覚えることは、生きていくうえでなによりも大切なことです。 この充実感や達成感を実感できないから、生きることが苦しくつらくなるのだと信じます。

  なにもしないで、閉じこもっていれば、なんの目標もなく生きていれば、生きがい(充実感、充足感)は感じられなくて当然ではないでしょうか。

  相手の協力を得られないでケリをつけられないときは、自分が納得できるような努力をすることしかないと思います。 それ以上は、どうすることもできないのです。 そのどうすることもできないことを、どうにかしようとするから、自信を失うのだと思います。 結果はどうであれ、自分で納得できれば自信を失うことはないと思います。

  「ケリをつける」とは必ずしも問題が解決することではなくて、自分で納得することではないでしょうか。 「自分はやれるだけのことはやった」。 このことが自分を信頼させるのです。 自分で納得できないから、苦しむのですから。 納得できることは、決していつまでも引きずることはないのです。

  このことは、とても大切なことではないでしょうか。

  我々は納得できないから、苦しむのです。 納得さえできればいいのです。 そう納得がすべてなのです。 あるいは、解釈がすべてだと言い直すことも可能です。 どのように納得するのかは、ひとりひとりの問題だと思います。 社会の常識や他人の価値観に合わせて納得しようとするから、苦しみが倍加するのだと、これを書いていて気がつきました。 自分の考え方に沿わなければ、納得することはできないのです。 自分の心の内側を見つめなければしあわせになれない理由が、ここにあるような気がします。

  自分に落ち度があったのであれば、誠心誠意謝る。 それで相手が納得してくれなければ、どうしようもないのです。 唯一の心の支えは、「自分にできることはやった」という自分自身に対する信頼感ではないでしょうか。 そして「二度と同じ過ちは繰り返さない」と自分の誓うことです。  だから、問題は解決することよりも、対処の仕方が大切になるのです。 

  「ものごとには解決できることもある、解決できないこともある」と知ることは、生きることを楽にしてくれるのではないでしょうか。 自分の努力だけでは解決しようのないことを、どのように考えるのか。 そこに人生の鍵があるように思います。

  問題が自分の思い通りには解決できなくても、納得さえできれば自己不信に陥らないですむのではないでしょうか。 解決もできない、いわんや納得もできないから、自信を失っていくのです。 くどい書き方になってしまいました。

  別のページに書きますが、中途半端が一番いけないのです。 若いときの私が中途半端でしたから、このことは骨身にしみていることです。

  やれるだけのことをやったらたとえ結果がどうであっても、自分はどのように感じることができるのかは、ひとりひとりが体験を通して学ぶことが必要不可欠だと思います。 このような大切なことまでを頭で理解しようとしてしまうから、生きがいを感じ取れなくなるのだと思います。 

  生きがいは決して理屈では納得できないものではないでしょうか。 汗をかき、恥をかいてはじめて納得できるものだと思います。 知識偏重の社会が、生きることをますます苦しくしてしまっているのではないでしょうか。

  「優柔不断」とは、「その場しのぎ、先送り」と同じことです。 優柔不断だったから、生きることがよけい苦しくなったのです。 大切なときに逃げることが、生きることを苦しくするのです。 「その場さえ、そのときさえよければ」という、人間の弱さが生きていくことをますます苦しくしてしまうのです。

  と言うことは、自信をつけるためには優柔不断さを克服しなければならないということではないでしょうか。

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