完全主義は自信を失う原因にもなる

  人は十人十色であり、世の中にはさまざまの性格や考え方の異なる人がいます。 たとえば、

なにごともきちんとけじめを付けなければ気がすまない人
だらしのない人
なにごとも自分でしなければ気がすまない人
ひとに任せきり、頼りきりの人

  ここでは、なにごともきちんとけじめを付けたり、自分でしなければ気のすまない人、とくに自分にミスのあることを自分に許せない人について考えてみます。 

  社会生活をおくるうえで「けじめをつける」ということは、とても大切な原則のひとつであることに異を唱える人はいないと思います。 しかしここで忘れてならないことは、世の中は二進法的に簡単に割り切れるものではないということです。
 たとえば、

白か黒か
右か左か
イエスかノーか
正しいか間違っているか

  このことを忘れて「イエスかノーか」と無理に結論を迫っても、正しい答えがでてくることは少ないし、また明確にどちらかに答えられない場合も多いと思います。 日本人は、それを無責任だということが多すぎるように思います。 また無理に結論を出したからといって、その結論が現実を正確に捉えているとは言い難いと思います。 日本人は白黒どちらかに決めつけないと気が済まない人が多いようですが、世の中にはその中間の灰色ということも多いのです。 その割には、自分の立場を明らかにしない人も多いですね。 

  蛇足ですが日本人は相手には「白黒を迫る」のに、自分の態度は明らかにしない人が多すぎます。

  人はだれでも少しで完全に近づきたいと願っていますが、完全な人は一人もいないのです。 なにを基準にして完全とするかさえ、明確ではないのです。 「完全」という言葉の意味さえ、人によって異なるのです。 完全とは人によって異なるものではないと思います。 すべての人を平等に納得させてこそ、はじめて「完全」と言えるのではないでしょうか。 人によって異なるものは、「完全」にはほど遠いものだと思います。 完全でありたいと思うことは決して間違いではありませんが、完全だと思うことは間違いもはなはだしいと思います。 こんなへりくつを並べても、なんの役にも立たないとは思いますが。

  しっかりしているようでも、どこか抜けているところがあってこそ、人間味があるのではないでしょうか。 ひとつの例として、次のような人を考えてください。 このような人は以外に多いものです。 節約を心がけている人が一円でも安くていい商品を買うために、新聞のチラシを丹念に見て近くのスーパーには行かずに、バスやタクシーを使って遠くのスーパーに行くようなものです。 でも当人は安くていい商品が買えたといって、満足しているのです。 このようなことがあるからこそ人間はおもしろいのであって、すべての人が理屈通りにしか行動しないとしたら、味も素っ気もない社会となり生きていてもおもしろくもないと思います。 

  完全さを求めることは必要でしょうが、求めすぎることは人間味がなくなることにもなり、ひいては社会と摩擦ばかり起こすこととなり孤立することは目に見えています。 完全とは理想とすべきものであって、実現できないものなのです。 だと思います……。 実現しないものだからこそ、少しでもそれに近づくために人は努力するものだと思います。 完全な社会が実現してしまったら、そこには何の問題もなく、なんの苦しみや悩みもなく、なにも努力をする必要はなくなります。 なにしろ完全な社会ですから。 そのような社会は堕落するだけです。 人間の歴史がそれを証明しています。  

 完全主義者の一番悪いところを言っておかなければなりません。 それは自分にはなにひとつ落ち度はないのだから、悪い点があるとすれば、それは相手にあるという一点につきます。 こうなると相手を避難することだけになります。 なにしろ自分には落ち度がないと信じ込んでいるのですから。 相手の言い分はすべて無視するのです。 これが完全主義者の最大にして最悪の欠点です。

  そしてもうひとつ、完全であろうとすればするほど自分の欠点だけが目について、自分を責めて自分に自信を失っていくことです。 求めれば求めるほど、自分に欠けているものが目について自信を失っていくのです。

  これはつい最近読んだ本に書いてあったことなのですが、「完全主義者は心の弱い人、劣等感の強い人だ」と書いてありました。 この言葉には本当に驚きました。 完全でなければ気のすまない人が、どうして心の弱い人なのか、劣等感の強い人なのか、すぐには理解することはできませんでした。 でも次のように考えれば、このことは理解できます。 すなわち、弱い自分を隠すためには、完全であるように振る舞わなければならないと考えると、このことは理解できるのではないでしょうか。 なにしろ完全なものは強く、あこがれの的ですから。 完全と見せることによって、自分の弱さを隠すことはよくあることです。 威張り散らすことによって、自分を偉大に見せようとすることと同じなのです。

  自分を完全だと相手に思いこませることができれば、その人は優越感を味わうことができるのです。 優越感は人間にとって最大の麻薬なのです。

  心の強い人は自分の弱さや欠点を素直に認めるものです。 弱い人が自分の弱さを隠すために完全主義を装って、自分を偽って強い振りをしていることが多いような気がします。 それが証拠には私の経験からだけ言えば、完全主義者はこちらからなにもしなくても喧嘩を売ってくることが多かったようです。 議論をしてくるのではなくて、頭から喧嘩腰で来るのです。 なぜ頭から喧嘩腰で来るのかと言えば、自分の心の底にある弱さを知られることが恐ろしいのだと思います。 攻撃は最大の防御と言いますから。 でも多くの場合、本人にもこの意識はないと思います。

  完全主義者は苦労ばかり多くて、得るものはなにもなく失う一方でしょう。 でも、正しくないのは相手であって自分ではないという考えが、完全主義者の唯一の心のよりどころなのでしょう。 

  自分がすばらしいひとになろうとして完全を目指すことはいいことですが、弱い自分を隠すために完全主義者になることは不幸のはじまりです。 世間体を気にしすぎることによって、完全主義者を装うようになるのです。 自分に実力がないのに実力があるように振る舞おうとすれば、周囲の目を気にせざるを得なくなるし、なにをするにしてもいちいち本当の自分とは違うことをしなければならなくなります。 現実の自分の考えていることと違うことをしなければならないことが、自分を苦しめてしまうのです。 このことが、自信を失わせ、自分自身を信じられなくしてしまうのです。

 これに関連しては、「欠けているのか、それとも求めすぎるのか」を参考にして下さい。

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