人間を努力に駆り立てる、もうひとつのもの

  人はなぜ努力するのでしょうか。 それは経済的にはもっと豊かな生活をしたい、精神的には生きる喜びを感じたいという、いわば積極的な姿勢です。 これは人間が努力する要素として当然の理由です。 この積極的な姿勢に負けず劣らず重要な要素があります。 それは「不安、恐怖」という要素です。 努力するのに積極的な理由のほかに、消極的な理由があるのかと不思議に思う人もいるかと思います。 しかしこの漠然としてとらえどころのない不安や恐怖が、希望よりも人生の中では大きな比重を占めているかも知れません。 希望はだれでも理解できますが、希望を持つと同時に、「果たしてこの希望は実現できるのだろうか」という不安や恐怖も同時に持つことはありませんか。

  不安や恐怖は人生に対して消極的な働きをするので、ほとんどの場合無意識的に避けることが多いと思います。 不安や恐怖は意識の世界よりも、無意識の世界を支配するものだと思います。 闇の帝王です。 私は心理学者でもないので専門的なことは分かりませんが、自分の経験に照らして話を進めたいと思います。 希望が神様とすれば、不安や恐怖は悪魔みたいなもので、神様が「きっと成功するよ」と言うと、同時に悪魔が「いや失敗するに決まっているさ」と言っているようなものです。 不安や恐怖はそれくらい私たちの心の底にへばりついていて、はがそうとしてもななかなかはがすことのできないものです。

  不安や恐怖がひとを努力させる重要な要素と言っても、理解してもらえないと困るので具体的にあげてみましょう。

笑われたくない・恥をかきたくないから勉強する
あの人には負けたくないから努力する
いやな思いをしたくないから努力する
不幸になりたくないから努力する
病気をしたくないから、健康のために運動する
貧乏はしたくないから、経済的にゆとりのある生活をするため努力する
自分の存在価値を認めてもらいたいから努力する
将来が分からないから、実力を付けるために努力する
失恋したくないから相手の気に入るように努力する
出世競争に負けたくないから努力する
受験で失敗したくないから努力する

  このようにあげていくと、私たちの日常生活は実は不安や恐怖の上に成り立っているといっても過言ではないと思います。 決してどこかの宗教のように、不安や恐怖をあおり立てようとしているのではないことだけは理解してください。 希望を持って努力していたことも、実は不安や恐怖の裏打ちがあったのだということが理解いただけると思います。 不安だから、そうならないために努力するのではないでしょうか。 ただ私たちは不安や恐怖を認めることは、社会的に弱い人間だという常識に捕らわれているから、希望と不安の本当の姿をとらえることができないし、また本当のことを知ろうとしないのではないでしょうか。 不安や恐怖とは希望の裏返しであり、希望とは不安や恐怖の裏返しだということを素直に認めることが、不安や恐怖を解消することにつながると思います。 この世の中は裏があるから表があり、表があるから裏があるというのは真実だと思います。 これは余談ですが、こんにゃくにも裏と表があるそうです。 素人には分かりませんが。 ためしに実物を見て考えてください。 きっと眠れなくなること請け合いです。 あえて、答えは書きません。  

  自分には不安や恐怖はないのだと強がりを言っても、問題は解決しないと思います。 不安は不安として、恐怖は恐怖として認めることから、問題の解決ははじまると思います。 不安や恐怖から逃れるための努力は、常になにものかに脅迫されているような感じがつきまといます。 頑張っても頑張っても、不安や恐怖がなくならないのです。 いくら頑張っても不安や恐怖が解消しないときは、自分は希望を持って努力しているのではなく、不安や恐怖と闘うために努力しているのではないかと考えてみる必要があります。 なぜなら不安や恐怖を原因とする努力は、神経症になりやすいように思うからです。 この意見は私の独断と偏見に基づいていますので、間違っていると思われる方がいるならば、ぜひご意見を頂戴したいところです。

  私たちは、それほど不安や恐怖に基づいた努力をしていることが多いのです。 少なくとも私の場合はそうだったと言えます。 どうしたら不安や恐怖をなくすことができるのか、なくすことができないまでも減らすことができるかについては、別のところで考えたいと思います。 

  成功できると信じることは難しいことなのですが、失敗するかも知れないと思うことはいともたやすいことです。 だから私たちは人生そのものに対しても、保険をかけるのです。 たとえは悪いのですが、受験のときの第二志望校、第三志望校というように。 失敗するかも知れないという気持ちが大きくなると、不安や恐怖が募りなにも手に着かなくなることさえあります。 不安や恐怖はだれの心にも、想像以上に根強く存在しているのです。

  「不安や恐怖を持つな」とか「心配はするな」と言っているのではありません。 不安や心配はなくなりはしないのですから。 よけいな不安や心配はしないようにと言っているのです。 起きるか起こらないか分からないことを、いちいち心配しないようにと言っているのです。 起きたら起きたで仕方がないのです。 そのときはそのときで対処するしかないのですから。 この対処できる能力が自信です。  いつなにが起きてもいいだけの心構えをしておくことが大切です。

  このことはなんの努力もしないで、心構えさえしておけばいいという意味ではありません。 努力もしない人に、心構えができるはずがありません。 現実には努力しても報われないことは多いのです。 あまり結果だけを心配しないで努力すること、これが大切だと思います。 努力もしないで失敗すれば、のこるのは後悔だけです。 努力をして失敗すれば一時的に悔しさは残っても、自分で自分を納得させれことができます。 自分で自分を納得させることが大切なことだと思います。 この悔しさは次のチャレンジへの踏み台となるはずです。 こうすることができれば失敗は単なる失敗には終わらないのです。

 
失敗を失敗のまま終わらせるか、次回の教訓としていかすことができるかは、ひとりひとりの考え方ひとつなのです。 同じ失敗を繰り返すひとは、失敗からなにも学ぼうとしないからです。 不安に基づいた努力は、いくらがんばっても心に安らぎをもたらすことはないので、自分がどんな状況にあるかはすぐに分かると思います。

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