これ以上気配りをしたら、神経がすり減ってしまうのではないか

  私も(私は… 日本語の助詞は正しく使わないと、とんでもないことになりかねません)、正しくは「私は」ですが、ただでさえ毎日神経をすり減らしているのに、これ以上気配りをしたら神経がすり減って、体が持たなくなると思っていました。 余談ですが、「は」という助詞はほかと区別する意味の副助詞です。 なぜこんなことだけおぼえているかというと、高校のときの国語の先生に「お前馬鹿だ、お前たち馬鹿だ」とさんざん言われ、そのときに「は」という助詞は「ほかと区別するときに使うのだ」と何回も言われたからです。 勉強もこんな風に教えられると、いやでも覚えるもののようです。 そのほかの助詞の正確な意味は、まったく覚えていないのですから。

  毎日神経をすり減らしているのに、もっと神経を使うなんてまっぴらです。 いままでも正直に言えば、そう思ってきました。 いまでも、そう思っていました。 でも、ここに大きな考え違いがありました。 なんのために毎日神経がすり減るほど気配りをしているのでしょうか。 その動機が問題だったのです。
 多くの場合は、

上司からよく思われたいため
周囲からいい人とか、ものわかりのいい人と思われたいため
自分の身を守るため
人間関係をぎくしゃくさせないため
本当の自分を知られたくないため
弱みを握られないため
相手との競争に負けないため

 と、こんなことがあげられるのではないでしょうか。 ここまで言ってしまうと、言い過ぎになるような気がしないでもないのですが。  

  上記のような理由で気配りをするから、疲れてしまったり、神経がすり減るような思いをしなくてはならないのだと最近になって気がつきました。 こんな意味での気配りをしていたら、神経がいくら太くても体が持たなくなるかも知れません。 本当の気配りは、神経をすり減らすようなものではなく、むしろ楽しいものだと思います。

  どんな気配りをすれば、疲れないで済むのでしょうか。 それは自分を正直に表現するための気配りであり、協調しても妥協しないための気配りであり、自分とともに相手もしあわせになれるための気配りだと思います。 このような気配りができるようになるためには、努力しなければなりませんが、なれてしまえば気配りをしているという意識はなくなってしまいます。 八方美人になるための気配りとは、まったく異なる気の配り方だと思います。

  必死になって気配りをしている人を見かけることがよくありますが、そのような気配りは「自分を守るための気配り」でしかないと思います。 はた目にも、その人の気配りがひしひしと伝わってきます。 気配りをしているのか、いないのか分からないような人もおります。 そのような人の気配りは、疲れない気配りではないでしょうか。 もちろん中には本当になにも考えていない人もいるはずです。 そんな人を気配りのできる人と勘違いしないことです。 

 

   気配りをしているのに疲れてしょうがない人は、自分がどんな気配りをしているのか見直し見てはいかがでしょうか。 これはあくまでも、私の独断ですが。 でも私の経験からは、そう断言できます。 神経をすり減らさなくても、気配りはできるのです。 その証拠に自分が使命感を持って仕事をしていると、何事があっても、偉い人に直言しても、どんなに気を配ってもあまり疲れは感じないはずです。 だから自分の知らない間に、このことは実行したことがあるのです。 気配りをして疲れると言うことは、いやいやながらしているからだと思います。

  自分を飾るために気配りをするから、疲れるのです。 本当の気配りは、すればするほど人間性が豊かになっていくはずです。

  自分をしあわせにする気配りとは、決して自分を疲れさせるものではなくて、自分や相手を楽しくさせてくれるものだと思います。 いちいち考えながらする気配りは、世間対を気にした気配りではないでしょうか。

最終的には、どんなに気配りをしても疲れない人になれればいいなと思いますが、自分には自信がないので、目標としてがんばります。

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