降りかかる火の粉は払わなければならない

 日本人の美徳のひとつとして、「忍耐」ということがあげられます。 確かに忍耐が人間を育ててくれることは論を待ちませんが、日本人は忍耐すべきでないことまで我慢しようとしていないでしょうか。 自分ではそんなふうに考えたこともないかも知れませんが、このことは無意識のうちに教え込まれてきたのではないでしょうか。 そして無意識のうちに我慢すべきでないことまで我慢しているから、自分で自分を信じられなくなっているのではないでしょうか。 心の底の底では、「我慢すべきではない」と知っているからです。

  我慢すべきでないことを我慢することは、自分の本心を押さえ込むこと(抑圧すること)であり、それは自分の心と精神をむしばんでいくことにもなるのです。 自分の責任で我慢しなければならなくなったときは問題外として、自分以外の人に責任のあることで自分が我慢をすることは、自尊心を傷つけられてしまい、相手や社会を呪うことにもつながりやすいのです。 このことについては、私のホームページの別のところでも繰り返し述べてあるはずです。

  自分に責任のないことまで我慢する理由としては、

相手に追従しているから反論できない
自我がしっかりしていないから反論できない
相手が恐ろしいから反論できない
相手に経済的に負い目があるから反論できない
反対することは悪いことと教え込まれた
       ・ 社会的常識と無意識に受け入れてしまった
目上の人だから反論できない
       ・ これはむずかしいことですね   (私にも大きなことは言えないのですが)
       ・ 反論ではなく、意見すら言えないのが普通かも知れませんね
相手から経済的利益を得るために我慢する
周囲から変なやつだと思われるのが嫌だから反論できない

   ざっと、こんなことが思いつきます。     

  私がとくに問題としたいことは、無意識のうちに「反対や反論することは悪いこと」、「自分に責任のないことまで責任を負うことが人格者だ」だと思っていないかということです。 

  無意識の意識というものは、実にやっかいなものです。 なにしろ自分はそうとはまったく思ってもいないのですから、自らは気づきようにも気づくことができないのです。 だれかに注意されたり、なにか特別のことでも起こらない限り気がつかないものなのです。 そしてそのような意識は集団意識として存在するから、なおさら気がつきにくくなるのです。 常識は当然のことであり、当然と言われることを疑う人は少なく、疑えば「あいつはおかしい」といって社会から受け入れられなくなる可能性が高いのです。 こうして「おかしな常識」は、いつまでも生きながらえるのです。 

  日本の社会は個性の尊重を叫んでいますが、実際には同質化を望んでいる社会なのです。 個々人は個性の尊重を望んでいても、全体として個性を抹殺することを望んでいるのです。 ここにも個人と組織の違いがあります。 個人の考えの総和は、必ずしも社会の欲求の総和とはなりにくいものなのです。 むしろ個人の考えとは逆になることが多いものです。 いまの政治のあり方を見れば分かっていただけるのではないでしょうか。 これはだれの責任と言えるものでもないのです。 責任逃れのように聞こえるでしょうが、一個人や一組織の責任ではなく、全体としての責任なのです。

  もう一つの「自分に責任のないことまで責任を負うことが人格者だ」については、このホームページのあちこちで述べてきましたので、「自分の責任範囲を明確にしよう」を読んでください。 

  自分の覚えのないこと、責任のないことで責められたり、責任を押しつけられたときには断固反論すべきなのです。 反論しないと自分の生き方が苦しくなるだけで、そうすると相手や社会を恨むようになり、楽しいはずの一生を棒に振ってしまいます。 あえて「棒に振ることになるでしょう」とは言わずに、「棒に振ってしまうことになる」と断言させてもらいます。 自分に責任のないことで責任を負う人は、勇気や責任感の強い人ではなく、むしろ心の弱い人なのです。 本当に責任感があり心の強い人は、このような場合は断固反論するはずです。

  このこともに何度繰り返しても、言い足りないことのひとつです。

  自分に責任のないことで責任をとっても、自分が辛くなるだけで、そのほかにいいことはひとつもありません。 本当にひとつもないのです。 なぜか、

負いたくもない責任を負ったことで、自分を偽っている
自分の本心を言えなかった
周囲からあいつは「責任感のあるやつだ」と思われたかった
この次にも同じように自分に責任を押しつけらけれ、会社をやめざるを得なくなるかも知れない
そうなると相手や会社を呪い、人生は意味のないものになってしまう
「人のいいやつだ」、「根性のないやつだ」と言われて、だれからも相手にされなくなる
      ・ 相手に信頼されようと思ってしたことが、逆に作用してしまう

  以上のことから言えることは、自分に責任のないことで責任をとらされようとしたときは、どんなに恐ろしくても自分の意見をはっきりと言わなければならないのです。 そのことが生きることを楽にしてくれ、そして社会でも信用されることにつながるのです。 なによりも自分自身への信頼を深めることになるのです。 言い換えれば、自分をもっと受け入れることができるようになるのです。 たった一度のことができなかったために、自信を失うこともあるのです

  降りかかる火の粉を振り払おうとしないから、余計な火の粉までもが降りかかってきて、相手に利用されるだけの人間になってしまい、生きることが苦しくなってしまうのです。 人は一旦利用できると思われれば、徹底的に利用されて、役に立たなくなれば真っ先に捨てられるのが世の常です。 だれでもそのように人には、なりたくないはずです。 そうなりたくなければ、自己主張することです。

  自分に責任のないことで責任をとらされようとしているときに、事実を説明することは悪いことだともいうのでしょうか。 決して言い訳をしようとしているのではないのです。 もし心のどこかにこのような考え方があったとするならば、今日からは忘れることです。 この世の中は甘くないのです。 繰り返しになりますが、自分の責任範囲を明確にしてこそ自分の人生が楽になるのです。 自分の責任範囲を明確にするということは、いくら言っても言い足りないのです。

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