我慢と忍耐
この二つの言葉の意味を辞書で調べても、ほとんど違いはありませんでした。 でも、私にはなにか大きく違う意味があるように思われるのです。 ここでは「我慢と忍耐」について、私の考え方を書いてみたいと思います。
辞書にある意味としては、
我慢 | …… | こらえ忍ぶこと |
我意を張ること | ||
片意地 | ||
我執 | ||
忍耐 | …… | 耐えしのぶこと |
参考 ) 忍従 …… じっと我慢して境遇のままに服従すること
と、ありました。
私には「我慢」は「忍従」と同じような意味に思えて仕方がないのです。 以下、私なりの解釈です。
たとえば風をさえぎるもののない野原の一軒家を想像してください。 その家はいまにも倒れそうな家だとします(問題を抱えていて、どうしたらいいか分からなくなっている状態です)。 嵐が襲ってきていまにも倒れそうなのに、家の中にいる人は家の補強もしないで、ただじっと嵐の過ぎ去るのを待っているようなものではないでしょうか。 まさに「忍従」という言葉が当てはまると思います。
この嵐では家を補強しなければ吹き飛ばされてしまうのが分かっていながら(自分がつらい生き方をしなければならないことを分かっていながら)、なにもしないで家が吹き飛ばされるまでじっとしているようなことが我慢ではないかと思うのです。 そして嵐が過ぎ去ったときに「やっぱり、この家は吹き飛ばされてしまった(やっぱり自分はダメなやつだ)」とつぶやくのではないでしょうか。
自分が精神的に倒れかけているのに、自分が他人につぶされかけているのになにもしないで、ただじっとしていて相手の言うがままになっているのが我慢のような気がしてならないのです。 我慢という言葉の中に、なにか自分から積極的に現状を変えようとする気概がどうしても見えてこないのです。 私の掲示板の中に「自分は長年苦しんだけれども、我慢の中には何の意味も見いだせなかった」と書いてあったことが、このページを書く契機になっています。 我慢ということには現実を変えようとする意志が欠けてしまっているから、どんなに我慢しても生きがいが見つからないのだと思います。 そこに見いだせるものは、自分に対するあきらめであり、偽りであり、不信感だけだと思うのです。
我慢してしまうから自信を失うのではないでしょうか。 現実の苦しみや悩みに対して積極的に働きかけることができないから、いつまでたっても苦しみがなくならないのだと思います。 時がたてばたつほど自己嫌悪がまして、ますます自分を追いつめてしまうのだと思います。
これに対して「忍耐」という言葉には、なにかしら積極的な意味を感じ取れるように思うのです。 私の独断と偏見でしょうけれども。
さきの例で説明すれば、風で家が倒れそうならつっかい棒をして家を補強するとか、雨漏りがしそうなら屋根の穴を防ぐとか、なにか対策を立てることが忍耐ではないでしょうか。 その結果家が倒れたり、雨漏りがしても、「自分でできるだけのことはやった」という自負心が心の支えになると思います。 忍耐という言葉には、努力ということが含まれているような気がするのです。
なにもしなければ、なにもできなければ、自信を失って当然だと思います。
現代社会はものが豊富になって、お金さえ出せばほとんどのものが手に入る時代になりました。 お金さえあれば欲しいものが手にはいるので、我慢や忍耐をする必要が昔ほどは必要なくなってきたのです。 ものが豊富ということが好ましいことには違いありませんが、人をしあわせにしているかどうかは次元件の違う問題だと思います。
忍耐力(家を補強するということさえ知らない人がいる、あるいは補強の仕方を知らないことが多くなった)がなくなってきたから、自分に自信を失う(大した嵐でもないのに家が倒れる)ことになったのではないでしょうか。
現実に耐えながら現実を変えなければ、自信を持つことはできないのです。現実が間違っているといくら反発しても、反発では自分を強くすることはできないのです。 逆に現実に飲み込まれてしまえば、自分で自分を追いつめてしまうのです。 問題解決の方法さえ知っていれば、悩みや苦しみがなくならなくても和らげることはできるのです。 その方法はひとりひとりが、経験を通して自分が傷つきながら身につけるしかないのです。
同じ我慢という言葉の中にもふたつの意味があると知っておくことは、自分が苦況に陥ったときにはとくに大切ではないでしょうか。 自分がつらく苦しいときに、いつまでもなにもしないでいるから、かえって苦しくなるのだと思います。 「逃げるからついてくる」と書いているように、現実から逃げたり、自分に都合のいいようにだけ現実を解釈しようとするから問題を解決できなくなるのです。 問題を解決しようとしなければ問題解決の手法が身に付かず、こんど同じような問題に直面すると苦しくてまた逃げてしまうのです。
自分が必要以上に苦しむ原因は、こんなところにあるのではないでしょうか。 苦しい現実に直面したときに、その現実を直視して解決の手法を学び取ろうとする意識がないから、いつまでたっても苦しみから抜け出すことができないのです。
だから我慢するだけでは、生きがいを見つけることができないのです。 「我慢することだけ」のなかから生まれてくるものは、社会や相手に対する恨みや憎しみだけであり、決して自分をしあわせにするものは生まれてこないのです。