社会や相手を恨んでいる限り苦しみは続く

  私は「相手や社会を恨んでいるかぎり、自分は成長できない」と言ってきました。 人間が最もおちいりやすい過ちのひとつに、「感情がおさまれば問題は解決した」と思い込んでしまうことが上げられると言えます。 実際に、我々はそうやって問題が解決したと思っているから、また同じ過ちを繰り返してしまうのではないでしょうか。 問題が解決していないのに解決したと思っているから、とんでもないときに、とんでもないことが蒸し返されるのだと思います。

  裏を返せば感情は人間にとって、それほどまでに根本的に考えなければならないことなのです。ただし、感情は考えたからどうにかなるというものではないのです。 考えても、どうにもならないことが多いのです。  たとえばだれかに面子を潰されたからといって、仕返しに相手の面子を潰しても相手に面子を潰されることになった問題が解決したわけではないのです。 感情的におさまりがついたから、問題も解決したと勘違いしているに過ぎないのです。

  「相手や社会を恨んでいるかぎり、自分が成長できない」のは、なぜか。 それは問題をすり替えてしまっているからです。 言い換えれば責任転嫁をしているからです。 「悪いの自分でなくて、あいつだ、社会だ」となれば、自分はなにも反省する必要がなくなるからです。 争いごとの原因は多くの場合、どちらか一方にあるのではなく双方にあるのに、「相手だけが悪い」と言いたいのはやまやまですが、それでは根本的な解決はできないのです。

  たとえば自分が面子を潰されたのは、自分の考え方ややり方や根回し(個人的には好きなことではないのですが)に問題があったからなのに、それを一方的に「相手が悪い」となれば、自分の欠点を見つめなくなってしまうのです。 ここで「相手に面子を潰されたのはなぜなのか」と謙虚に考えることができれば、自分の欠点や短所に気がつくことができて、結果として成長することができるのです。 これは自分を責めることではなく、反省することだからです。 ここで自分を責めてしまえば、成長することができなくなります。 相手を責めても同じことです。

  ここで相手も同じように自分を反省することができれば、ひとつのことで二人の人間が同時に成長できるのです。 お互いに恨みあってしまうと、二人とも潰れていくだけです。 心の弱い人は自分の欠点を見つめることが恐ろしいから、自分を反省することもできず、さりとて相手に面とむかって自分の考えを伝えることもできず、なにもできない自分を責めてしまうのです。 そんな自分が嫌いだから、ますます自分を見つめることから逃げてしまい、最期には生きることそのものからも逃げてしまうのではないでしょうか。

  では、どうすればいいのでしょうか。 それにはありのままの自分を見つめて、ありのままの自分を受け入れるしかないと思うのです。 ここで弱いありのままの自分を受け入れようとしないから、自分を嫌いになってしまうのですから。 どんなに弱い自分でも自分なのです。 理想の自分だけを認めて、現実の弱い自分を認めることができないことから、すべての悲劇が始まるのではないでしょうか。

  ありのままの弱い自分を受けれいることができるかどうかは、自分の決断次第だと思います。 ある決断を下したら、これからどんなことが起こるか分からなくて、その恐ろしさに耐えられるかどうかが問題なのです。 苦しくてもいままで何とか生きてきたのだからいままでの苦しい生き方を続けるのか、それとも恐ろしくても未知のことに挑戦していくのか。 その決断が必要なのです。

 このタイトルは「自分を正当化するから苦しみが続く」と言い換えてもいいのです。

  本当に、上記のように思います。

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