過去を忘れるとは、どんなことか

 自分の過去を振り返ってみると、忘れたいことが山のようにあります。 本当に忘れてしまいたいことがいっぱいあります。 恥ずかしいこと、苦しいこと、つらいこと、様々です。 でも何度も書いてきたように、過去はなかったことにしたいと思ってもなかったことにはできないし、忘れたいと思うことが妙に忘れられないものです。 過去のあの出来事さえなかったことにできるのなら、自分の生活は大きく変わるのにということも一つや二つだけではありません。 数え切れないほどあります。 でも自分が自然に本当に忘れてしまわない限り、過去のできごとはどうにも変えようがないのです。

  そのような過去を引きずりながら、前向きに生きるにはどうしたらよいのでしょうか。 忘れてしまいたい過去を忘れないでも前向きに生きるには、どのような方法があるのか、そんなことを考えたいと思います。

  私が取っている新聞におおむね次のような内容のコラムがありました。 忘れようにも忘れられない記事のひとつです。 それは阪神大震災(東日本大震災ではありません)の追悼に関するコラムの中にありました。 子供を亡くした母親の話です。 その母親は「子供のことを忘れることは、亡くなった子供に対して申し訳ないから一生この悲しみを忘れたくない、この悲しみとともに生きていく。」というようなことを話していたということです。  これからの人生を悲しみとともに生きていくというのは、いかにも日本人的発想で美しいことにも思いますが、この母親は毎日をどんな気持ちで生きていくのでしょうか。 それを考えると胸の痛む思いがします。 この母親は希望を持って生きていくこともできるのに、過去のどうしようもない悲しみを背負って生きていこうとしているのです。 私は子供を亡くしたことがないので、そんなことを言うのだと言われればそれまでですが、これからの人生を希望のないままに生きていくことはどんなにつらいことなのでしょうか。 亡くなった子供は、そんな母親の姿を見ることができたなら喜ぶのでしょうか。

 悲しみを背負いながら、希望を持つことはできるのでしょうか。 持つには持てるとは思いますが、そのような生き方は真のしあわせと言えるのでしょうか。 ここは意見が分かれるところだとは思いますが。

  私の考え方が、間違っているのでしょうか。

  ここには忘れるという言葉の意味が、取り違えられているように思うのです。 忘れるということは、文字通り「過去の事実をなかったこととして記憶の外に完全に放り出すこと」ではないと思うのです。 毎日毎日思い出しても、忘れることはできるのではないでしょうか。
 
  すなわち、「忘れる」とは

過去の事実を反省材料として、将来に生かすこと
過去の事実を事実として、ありのままを認めること

 ということを指すのではないでしょうか。 

  過去の事実を反省材料として将来に生かすことができれば、過去の苦しみや悩みは無駄には終わらないのです。 過去を将来に生かすことのできない人が、自分の人生は、自分の過去は一体なんだったのだろうといって、過去をのろい本当に忘れられなくなるのではないでしょうか。 過去の事実を反省材料として苦しみや悩みを昇華させることが、忘れることの意味の一つだと言えます。 そして自分がしあわせになることが、過去を忘れることでもあるのです。 決して頭の中からなくしてしまうことではないと思います。

 過去のつらい思い出を、将来への足がかりとできたときは、過去を忘れたというのではないでしょうか。

  もうひとつは、過去の事実を事実としてありのままに認めることだと思います。 過去を認めることができなければ、過去の延長としての現在を認めることができないのは当然の結果だと言えます。 過去をありのままに認めることが、許すと言うことの意味ではないでしょうか。 過去にこだわっている以上は、しあわせになることは難しいのではないでしょうか。 

  「過去を忘れる」とは、過去のできごとによって自分が成長できることです。 もしその過去がなかったら、自分は別の自分になっていたということです。 すなわち経験によって、自分が成長できたということです。

  いまさら物理的にどうすることもできない過去のことにとらわれてしまうから、どうにもならなくなって苦しむのではないでしょうか。 唯一できることと言えば、過去を反省材料にして将来に生かすことだけです。

  こう考えなければ、思いこまなければ本当に生きていけなくなってしまうと思っています。

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