忘れるということ

 人生にはできることなら忘れてしまいたいことが、たくさんあると思います。 私は覚えておきたいことよりも、忘れてしまいたいことの方がずっと多かったような気がしています。 しかし頭ではいくら忘れようとがんばってみても、忘れられないこともあるのです。 忘れられないいやなことは、どうすればいいのでしょうか。 忘れられるまで、忘れようと努力しなければならないのでしょうか。 これは前に書いたことの繰り返しになるのですが、忘れられないことを忘れようと努力するとそのことがいつも頭の中にあるので、結果的にかえって忘れられなくなるのです。

  では、どうしたらいいのでしょうか。 結論だけを言えば、忘れられないことは無理に忘れようとしない方がいいのです。 人の心は不思議にできていて「忘れられないことはどうやっても忘れられないのだ」と思うと、かえって頭の中から消えていき忘れることができるようになるものです。 これを俗っぽい言葉では「開き直り」と言います。

  本当に忘れるということは逆説や屁理屈のように聞こえるはずですが、心にしっかりと刻みつけることです。 心に刻みつけるとは、その忘れられないことを通して自分がより大きく成長することです。 そうなれば、「あの出来事が自分を大きくしてくれたのだ」と心の底から思えるときがくるはずです。 そのときこそ、忘れられないことを忘れたときなのです。 これは理屈では説明できません。 論理的には、めちゃくちゃなのです。 このようなことを体験した人だけに、分かってもらえることだと思っています。 それができれば、本当に忘れたかどうかは問題にもならなくなります。 

  このように人間は非合理的なことによって、自分の存在を支えられているのではないでしょうか。 西洋的な合理主義だけを信奉する人には分かってもらえないはずですが。 そのような人でさえ、自分の気がつかないところで非合理的なものに支えられていると思います。 だからこそ、自分には納得のできないことが大切なのです。 理不尽だからと言って簡単に切り捨ててしまうと、人間的成長は望めないのではないでしょうか。

  忘れるということに関して、私にはどうしても忘れられないことがあります。 それは阪神大震災で子供を亡くした母親の言葉です。 ある新聞のコラム欄に載った記事でした。 その母親の言ったことの、内容だけを紹介します。 「あの日のことは一生の間忘れません。 あの日のことを忘れることは、子供に対してすまない。 私は一生涯コンプレックスの苦しみを背負って生きていきます。」 

  あの日のつらい苦しみを一生涯忘れないで生きていくことで、しあわせになれるのでしょうか。 しあわせになれなくてもいい、子供がかわいそうだから、子供に申し訳ないから」と言うのでしょうか。 私は自分の子供を亡くしたことがないので、その母親の気持ちは理解できないようだということは、お断りしておきます。 子供を亡くしたことはいくら悔やんでもどうにもならないのですから、そのことを今後の人生の中に活かしてしあわせを求めることが、なぜいけないのでしょうか。 私には、そう思えるのです。 自分がしあせせになることが、子供に対する供養にもなると思うのですが、いかがでしょうか。 過去の悲劇に生きることが、はたしてしあわせなのでしょうか。

  前を向いて生きるのか、過去に生きるのか、それは各人の自由ですが、基本的なことは生きている自分がしあわせになる努力をすることではないでしょうか。 どんな生き方をしようと、心の底から自分はしあわせだと言えるのなら、私には言うことはありません。 忘れられないことを人生の糧とできれば、それは苦しみではなくなるのです。 苦しみではなく、過去のひとつの事実となり、苦い思い出にはなってもそれによって人生を妨げられることはなくなるのです。 私は、そう思います。

  忘れられないことを無理に忘れようとするから、毎日の生活が苦しくなるのではないでしょうか。 忘れられないことは、無理に忘れなくてもいいのです。 いつかは忘れられるときが来るかも知れません。 そのときとは、その忘れられなかったことが人生の糧となって、苦しみや悩みの原因ではなくなるときです。 自暴自棄になって自分のすべてをだめにするか、忘れられないことは忘れられないこととしてその事実に対決していくのか、それも各人の自由なのです。

  忘れるということは、過去を勉強として立ち直ることです。 それができれば忘れなくとも、苦にならなくなるはずです。 過去が生きることの障害になっているということは、その過去を勉強材料として自分が立ち直っていない証拠です。 過去の事実から自分はなにも学んでいないと言うことです。 きつい言い方なのですが、そうとしか言いようがありません。

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