お金のない人はお金持ちを非難することによって自分を納得させるしかない

 人間が自分の身を守るときは、どんな行動をするのでしょうか。 一般的には相手を攻撃すること、そして自分を正当化することだと思います。 その次には、なにもしない、言わないで批判を避けることでしょう。 人に逆らわないこと、妥協することも後者の例です。 みなさんは、どちらのタイプですか。  

  心の強い人が自分を守るために相手を攻撃するのは健全なことでしょうし(はたして、そうでしょうか)、心の弱い人が自分を守るためになにもしないことも当然なことでしょう。 この場合「相手を攻撃する」という表現は適切ではないと思います。 正確には「自己主張する」というのが正しいと思います。 自分を守るためになにもしないことは、決して健全なこととは思いませんが、心の弱い人にとってはそれ以外に身を守る方法がないのですから仕方のないことなのです。 ここで問題にすることは心の弱い人が身を守ることであり、心の強い人のことは問題にしません。 問題にしないというより、問題にする必要がないのです。 

  世の中には次のような言い方で、他人を批判する人がいます。

あいつはくだらないやつだ
あいつは冷たいやつだ
あいつは自分勝手なやつだ
あいつは思いやりのないやつだ
あいつはけちなやつだ
あいつはうぬぼれが強いやつだ
あいつは協調性のないやつだ

  などあげれば切りがありませんが、このような批判は日常茶飯事のことでしょう。 そのなかにで常識と思われる範囲で比較的冷静に批判することは問題はないと思いますが、非常識なくらいにこのような言葉を口にする人もいます。 問題はこのような人のことです。

  そのような人はなぜ相手を過度に非難するのでしょうか。 非難される人はだれの目から見ても、そんなに非難されるべき人なのでしょうか。 過度に非難されてもおかしくない人もいるでしょうが、多くの場合普通の人から見ればそんなに非難されて当然の人ではないことが思います。 そのようなときは非難される人に問題があるのではなく、非難する人に問題のあることが多いのではないでしょうか。

  要するに、過度に他人を非難するとは、相手を非難することによってしか自分の身を守ることができないのではないでしょうか。 人間だれしも自分の弱さやいたらなさを認めたくはないものです。 自信のない人ほど認めたくないものです。 それを認めてしまえば、自分の身が持たなくなるからです。 たとえばお金のない人が金持ちを非難する場合を考えてみましょう。 「あいつはけちだ」、「あいつは汚いことをして金持ちになった」、「あいつはおべんちゃらばかり言って、実力者に取り入った」、「あいつは金持ちの娘に目を付けて、金目当てに結婚した」、「金などいつでもできる」などと言うことは、だれしも聞いたことがあると思います。  

  そのことがたとえ事実だとしても、なぜそのようなことを声高に話さなければならないのでしょうか。 本当は自分もお金持ちになりたかったのにお金持ちになれなかったから、その事実から目をそらすために、あるいはそのことを認めると弱い自分を認めることになるので、相手を非難することによって、自分を守ろうとしているのではないでしょうか。 心の一時的な安らぎを得ようとしているのではないでしょうか。 自分の無力感を避けようとしているのではないでしょうか。 このことを知ったときに自分の過去を振り返ってみると、当たっているように思いました。 またあることを不必要なまでに非難する心理を、このように見るといままでは理解できなかったことが理解できるようになりました。 このことを心理学では「投影」と言うそうです。

 ある人は、思いやりという言葉を頻繁に使います。 その人の言動を観察していると、思いやりに欠けているような気がしてなりません。

  このことを自分の体験から述べてみます。 私がある課にいたときに、女子社員でその場にいない上司の名を呼び捨てにしたり、人をけなしてばかりいたり、あるいは周りの同僚や上司にまでもけんかを売ってばかりいるような部下がおりました。 乗り物の中では大きな声で、他人の悪口ばかりも言っていたので、彼女と一緒にいるのはだれもがいやがっていました。 あるとき係りは違っていたのですが、私も通りすがりにけんかを売られたことがありました。 そのときはたしなめましたが、彼女がなぜそのような態度ばかりとるのかは理解できませんでした。 うすうすとは分かっていましたが、はっきりとは理解できませんでした。 その彼女を理解し始めたきっかけは、彼女の母親が完全主義者であり、相手のミスは許さない人だと聞いたことです。 彼女も本当はそのような自分の姿にうんざりして、苦しんでいたのだと思います。 そのような本当の自分を認めることができないので、他の人をけなすことによってしか自尊心を保てなかったのだといまは理解できます。 彼女は本当は強い人間ではなく、劣等感にさいなまれていたのです。 でも自分では、意識することはないですが。

  過度にひとつのことを非難する人は、なにか劣等感を持っているのです。 もしくはそのようにしたくてもできないから、相手を非難するのです。 たとえばサラリーマンの出世を考えてみましょう。 よく「あいつは実力もないのに、おべんちゃらで出世した」といいますが、そう言っている当人は出世したくても出世できなかったから、相手の実力を認めないことによって自分の実力のなさを隠そうとしているのではないでしょうか。 もし本当にお世辞で出世できるのなら、自分もお世辞を言えばよかったのです。 お世辞も言えない、出世もできないから、相手を非難するほかに自分を守る方法がなくなるのではないでしょうか。 こんなふうに人間を見ると、いままでは見えなかったことがよく見えてくるように思います。 少し私も意地汚いようですが。

  自分の自信のなさを隠すためには、強がりを言って相手を非難して、かっこのいいところを見せれば、多くの人はだますことができます。 嘘だと思ったら、やってごらんなさい。 相手は騙されることが多いですから。 でもそれに味をしめて、相手を騙すことばかりしてはいけませんよ。 お金がないのにサラ金から借金して、羽振りのいいところを女の子に見せてごらんなさい。 

  俺は有名人に知り合いが多いという人も、実は自分の劣等感に悩んでいる人なのです。 有名人と知り合いだという意識だけが、その人を支えているのです。 そのほかには自分を支えるものがなにもないのだと思います。 有名人に知り合いが多いといえば、その人はちやほやされますから。 このような人にとって周囲からちやほやされることによってしか、自分の存在感を維持できないのです。 有名人と知り合いだと言えば言うほど、無力感と絶望と挫折感にさいなまれていくしかないのです。 そしてそのことを無意識の自分は分かっていても、やめることができないのです。 それを止めることは人生の終わりをも意味するのに等しいのです。 どんなに社会が変わっても、自分が変わらなければ強い人間にはなれないのです。 

  責任を社会に押しつけても、問題が解決することはまれなのです。 社会を変えるよりは自分を変えることの方が、ずっと現実的でしょう。 そしてそうすることが、根本的な解決法だと思います。

  強がりを言うことも同じことです。 自分は強く見られることによってしか自分の存在価値を確認できないのです。 強いことと強がりはまったく違います。 弱い自分を隠すためには、強がりが必要なのです。 強がりは意地っ張りと同じことです。 その証拠に本当に強い人は、ふだんは物腰が柔らかではありませんか。 柔軟性があるではありませんか。 弱い人ほど硬直的であり、問題を起こしやすいのです。 なぜ硬直的になるかと言えば、常に自分の意見をその場に合わせて変えると、首尾一貫性のない人と思われると信じているから自分の意見を変えることができないのです。

  自分を認めてもらいたいから、他人を強く非難するのではないでしょうか。 自分を認めてもらっていると感じているなら、なにも不必要にだれかを非難するこつ要はないと思うからです。 他人を非難することで相手の注目を、自分に向けようとしているように思うのです。

  これ以上は書かなくても、分かっていただけると思います。

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