周囲に振り回されない生き方をしよう

  このことは手を変え品を変えてなんども書いてきたことですが、生きていくうえで非常に重要なことだと思いますので、改めて考えてみます。 私は自分自身のことを振り返って書いていますが、これをお読みになる方も自分の生活に当てはめて考えてもらいたいのです。 きっと心当たりがあると思いますから。

  私たちの生活のすべては何らかの形で社会と結びついており、社会との関わりなしで生きていくことはできません。 一人ひとりが個人と社会や組織とのバランスをとりながら生活しているわけですが、このバランスの取り方が実は重要な問題なのです。 バランスの取り方がまずいと利己主義的だとか、自分勝手だとか言われたり、反対に周囲のことを考えすぎるとよけいな苦労ばかりする事になり生きることがつらくなってしまいます。 生きることがつらい人は、このバランスが崩れているのではないでしょうか。

  私たちは常に周囲からの評価を気にしながら、自分の利益と社会の一員としての立場の調整を図っています。 あるときは自分の都合を優先させたり、あるときは自分の属する社会や組織の都合を優先させたりしながら、絶えず双方のバランスをとろうとしているのです。 意識的にすることもあれば、無意識にすることもあります。 むしろあまりに日常的なことなので、無意識に調整していることが多いと思います。 あまりにも日常的なことなので、自分の生き方がつらくなっていることの原因がかえって分からなくなっているのだと思います。 

  「他人(周囲)に振り回されない生き方をしよう」と言うと、「それでは自己中心的だ」とか「自分勝手だ」とか「利己主義的だ」という反論があると思いますので、そうではないことを説明しましょう。 私の言いたいことは

自分の都合だけを考えろといっているのではありません
相手の立場はどうでもいいと言っているのではありません
相手の言いなりになれと言っているのでもありません
相手の話を聞くなと言っているのでもありません
自己主張する事は大切ですが、自分の言い分だけを通せと言っているのでもありません
相手の立場を尊重すると言うことは、相手の言いなりになることとは違うのです
        ・お互いの立場を主張し合うことが、お互いに尊重し合うことだと思います
自分の言いたいこと・したいことは、なにをしてもいいと言っているのでもありません

  「だったら、どうしろと言うのだ」という姿が目に見えるようです。

  自分の言いたいことやしたいことばかりしていたら、どうなるでしょうか。 「あいつは自己中心的なやつだ」とか「自分勝手だ」とか「利己的だ」と言われるでしょう。 まさにその通りだと思います。 自分の考えだけを通そうとすれば、必然的に相手や社会とことごとく衝突することになり、心安らかな社会生活を送ることはできなくなります。 問題の責任をすべて相手に押しつけると、自分の生き方がつらくなるだけなのです。 そして最期には「俺は正しいのに、だれも俺のことを分かってくれない。 この世の中は間違っている」などと言い始めるようになるでしょう。 社会生活をしている以上、問題の原因は双方にあると考えるべきだと思うのです。 相手に一方的に責任を押しつけてみても、恨みが残ることはあっても解決することはないでしょう。

  これとは逆に、周囲のことばかり気にして生きていたらどうなるでしょうか。 自分の言動を決定するときに、自分の価値判断で決めるのではなく、相手がどう思うかによって自分の言動を決めているとどうなるのでしょうか。

常に相手の出方をうかがうようになり、おどおどしたり、疑い深くなる
相手の意見に迎合するようになる 
       ・相手に気に入られるために、相手に合わせるようになる
相手と自分の意見が違った場合は、自分の意見は言えなくなる
       ・精神的に自分を抑圧することとなり、最悪の場合は鬱病的になりやすくなる
相手の価値判断の基準が変われば、自分の基準も変えなくてはならない
       ・だから相手の出方をうかがうようになる
自分の生活が守れなくなる
自分の存在自体が空虚なものとなる 

  結局のところ相手の基準が自分の生きる基準となってしまい、自分の考えや存在そのものがなくなってしまうのです。 お互いの生活を円滑なものにしようとして相手に合わせてばかりいると、自分の生活さえも破壊することになるのです。 このことをぜひ分かってもらいたいのです。 周囲を必要以上に気にする生き方は、決して個人をしあわせにはしてくれません。 周囲を気にしすぎるとかえって自分が見失われて、社会との隔たりが生じてしまうのではないでしょうか。 社会との隔たりをつくらないようにと周囲に合わせていたはずなのに、そのことがいつの間にか社会との隔たりを作り出してしまうのではないでしょうか。 まったく悲劇というほかはありません。

  周囲をまったく気にしないことはもちろんいけないことですが、気にしすぎることはもっといけないことなのです。 「お互いの立場を尊重するということは、相手の言うなりになることではない」と書きましたので、そのことについて説明します。 先頃東京都知事になった石原知事は「日本人は議論することの下手な国民だ」と言っておりましたが、「まさにそうだ」と思わず合いの手を打ってしまいました。 日本人の多くは議論するというと、相手と口論して勝ち負けを争うことのように考えているのではないでしょうか。 もしくは揚げ足を取ることだと思っているのではないでしょうか。 議論とは勝ち負けを争うことではなくて、お互いの考えていることを述べ合うことだと思います。 述べ合ったことの中からよりよい方向を探していけばいいのです。 だからお互いの意見を述べ合うことは、お互いの立場を尊重することになるのです。 

  日本人の伝統のひとつに「和」の精神というものがあります。 和の精神とは、争いごとを避けてなにごとも話し合いで解決しようとすることだと思います。 和の精神とは、「なれ合い、先延ばし、長いものには巻かれろ」ということでしかないのです。 決して会社の社是に掲げてあるような意味は、本来的にはないのです。 ときとしては法律よりも、話し合いの決定が優先することもあり得るのです。 和の精神を大切にするあまり、日本では議論することを避けてきたのだと思います。 しかし和というものは法律のように厳格に解釈するものでなく、誤解の生ずる恐れが多分にあります。 これからの世の中は、仕事においてはもちろんのこと、私生活においても、相手に迷惑をかけないために誤解の生じないような言動をとる必要があると思います。

  誤解を生じないと、あれこれとよけいなことを推測する必要もないので、すっきりした生活ができると思います。 ときにはものごとをはっきりと言うのでいやな思いをすることもあるでしょうが、そのようなことは避けて通れないことですから受け入れるしかないでしょう。 お互いに誤解の余地がないように納得するまで話し合うこと、これが議論ではないでしょうか。 日本人にかけているのは、これだと思います。 日本人はものごとをはっきり言わないこと、先送りすることを美徳のひとつと考えてきましたが、ここらでこのような習慣とはおさらばしたいものです。  

  話を元に戻して「他人の意見に振り回されるな」とは、相手の言うことや立場をよく考える必要はありますが、それらを考慮して自分の行動を決定したこならば、今度は相手のことは気にせずに目標に向かって努力しなさいということです。 結果として相手に迷惑のかかることはあっても仕方がないのではないでしょうか。 相手の立場を考えられるだけは考えてあげたのですから、もうそれ以上は考える必要はないと思うのです。 そうしなければ自分がだめになってしまうからです。 この段階になっても、相手のことを色々と考えるから悩んでしまうのです。 だから生きることが辛く苦しいものになってしまうのではないでしょうか。

  自分の生き方を苦しくするのも、楽にするのも自分次第ということになります。 それがこの世の中は自由だということなのでしょう。 自分が決断を下すという意味において。 世間が冷たいのではなくて、自分の考え方に問題があるのかも知れません。 冷たい言い方なのですが、それが真実ではないでしょうか。 私には、そうしか思えないのです。 自分がつらい目にあっているときは、本当につらいのですが。 ただ自分の間違いを認めたくないから、悪いのは世間だと言い張っているかも知れません。 もしこのような状態にあるときは、ありのままの自分を見つめる必要がありそうですね。 本当の自分を恐れずに見つめることができれば、生きていくことはそんなに辛いことではなくなると思います。

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