いい子を止めれば、もっと楽に生きられる
いまの社会は問題児と呼ばれる子供も多いですが、「いい子」と呼ばれる子供がなんと多いのでしょうか。 そして「いい子」と呼ばれている子供達の多くは、自分の素直な感情を表現することを許されずに苦しみもがいていることなのでしょうか。 大人達には子供の気持ちがどれくらい分かっているのでしょうか。 大人達の多くは、「子供のため」ということは、どんなことと理解しているのでしょうか。 この意味からすると、問題児と言われている子供達の方が、自分の感情を素直に表現していると言えないこともないと思います。 現実にはこんなに簡単に言い切れる問題ではないことは、承知しています。
「子供達のため」と思って大人のしていることは、本当に子供達をしあわせにできるのでしょうか。 現実を見ていると私にはどうしても、そのようには思えないことが多いのです。 では私にはどのように思えるかというと、「子供達のため」という名目において大人達の規範や考え方を子供押しつけ、そのことによって大人が心の安らぎを得ようとしているのではないかと思えるのです。 もっと言わせてもらえば、子供は大人の自己満足の道具としてだけ扱われているのではないかと、声を大にして言いたいのです。 それほどまでに大人自身が自分の教育方針に自信を持てなくなり、自分自身に対しても自信が持てないので、子供を絶えず自分の考えのもとに縛り付けておかないと安心できなくなったということだと、あえて言いたいのです。
「子供は親を映す鏡だ」と言われますが、まさにその通りだと思います。 いま子供達の問題が大きく騒がれているということは、とりもなおさず子供をしつける大人達の問題だということです。 個々の問題に関しては、このように言い切ることは適切さを欠きますが、社会全体としては「子供の問題は即大人の問題」であると言っていいと思います。 それほどまでに大人達も、価値観や自信を喪失しているのです。 いま問題にされている子供達の親の年齢や、育ってきた時代背景を考えてみれば私の意見もあながち的をはずれてはいないと思いますが、いかがなものでしょうか。 ぜひ、皆様のご批判、ご意見を伺い、自分の考え方の一助としたいと存じます。
様々な非行や暴走行為をしている子供達も、親や社会から抑圧されて自分の素直な感情を表現できず、ましてや親や社会からはまったく受け入れてもらえない結果として、問題を起こしているのではないでしょうか。 子供達は「助けて!」と悲鳴を上げているのではありませんか。 そして「助けて!」とさえ言えずに、非行に走っているのではないでしょうか。 子供達個々人にまったく責任はないとは言いませんが、責任の多くは大人達にあるのではないでしょうか。 それなのに大人達の多くがすました顔をして、「自分の子供は社会に迷惑をかけていません、非行に走る子供を生み出す家庭が問題なのです」と、責任回避をしているのではないでしょうか。 子供の問題は社会全体の共同責任ではありませんか。 子供達に苦しみや悩みを表現したり、解決する方法を教えてこなかった大人にこそ責任があるのではないでしょうか。 でなければ、子供達の様々な問題の責任はどこのあるというのでしょうか。
ここで、なぜこのような問題が発生してしまったのか、その原因だけを自分なりに書いてみると
学歴偏重・知識偏重の誤った教育 ・学歴のない人は人間的価値に劣るという考え ・知識がすべてであるという知恵軽視の教育 |
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上記のようなことに基づく過度の教育競争 ・この教育競争に負けたものは価値のない人間だという考え |
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誤った個人主義の考え ・日本人の多くは個人主義と利己主義区別のできていないように思えてなりません |
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島国根性(ここでは単一民族、単一国家とでも言っておきましょう)による、必要以上の周囲への気配り ・世間体を気にしすぎる |
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利己主義に基づく弱者への無関心 ・気配りと無関心という不思議な二重構造の社会 |
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自由をはき違えた自分勝手の横行 | |
個人と会社の一体感による地域社会への無関心 ・自分の生活の基盤となる組織さえよければ、あとはどうなっても関心がない |
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親が子供のしつけをできなくなっている ・これが最大の問題でしょう ・いわゆる「ものわかりのよい親」が増えている 本当のところは、肝心なことは何一つ分かっていないことが多い |
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親も子供も自分の明確な考えが持てないので、社会に妥協し迎合する安易な生き方になった ・親がしっかりできないので、子供もしっかりできないのは当然の理です |
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親も子供も正しい自己主張の仕方が分からない ・自己主張というと、言論によって勝ち負けを争うことだと思っている人が多い社会ですから ・自己主張については、別のところに書いてありますので参考にして下さい |
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自分の意見を明確にしないことが美徳であり、世渡りの方法だという考え | |
日本人独特の「和の精神」が、すべてのことをなし崩し的に悪い方向へ向かわせる ・「和」については考え直してみる必要があると思います |
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「事なかれ主義」の横行 | |
物質万能と科学万能の思想 | |
思いやりと地域社会の崩壊 |
まだまだありますが、これだけにとどめます。
非行に走る若者と常識があると言われる大人との違いは、自分の感情や言いたいことやしたいことを心の中に押さえ込むか、行動に移すかではないでしょうか。 子供達は自分の感情を抑えるということを、だれからも教えられていないので、短絡的に自分の思うがままの行動にしか移せないのだと思います。
話は大分脇道にそれてしまったので本題に戻ります。 本題は「いい子を止めればもっと楽に生きられる」でしたね。 ここで言う「いい子とは」の定義が大切です。 本当にいい子はここでは問題にしていないのです。 ここで言う「いい子」とは見かけ上は問題のない子供であっても、心の中に他人には言えない感情を抱えている子供のことを指しています。
具体的にあげれば
親に怒られるのが怖くて、親の言いなりになる子供 ・はた目からは、親の言いなりになっているので素直でよい子に見えるが、心の中では反発している |
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自分の感情や意見を素直に表現できない子供 ・心にいつも不満をため込むことになり、いつどういう形で爆発するか分からない |
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いつも周囲を気にして生きている子供 ・一見環境に適応しているように見えるが、心底適応しているわけではない ・おどおどしたり、不自然さがある |
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返事はいいが、ひとりではなにも実行できない子供 | |
自分から積極的に行動できない子供 ・人から言われたことだけ、言われたとおりにする子供 |
残念ながら、このような子供はたくさんいるのではないでしょうか。 親にしてみると、親の言うことを素直に聞く子供は理想的な子供かも知れませんが、問題は年齢的に自立してもいい年になっても自立できない子供なのです。 そのような子供は親にとっては可愛くてたまらないと思いますが、ここに最大の落とし穴があるのです。 自立しないのではなくて、親が子供の自立を妨げているのです。 そのことに親は気がついていないし、子供は気がつきようにも気がつくことはできないのです。 なぜならそのようなことに気がつかないように育てられたからです。
人間にとって大きな不幸のひとつは、あるいは生きることが苦しくて仕方がない原因の一つは、自立心を育てることができないことだと思います。 いつもだれかに依存していなければ不安で、自分ひとりではなにも決断できない生き方です。 問題を起こした家庭のことをテレビや新聞や週刊誌などで読んでみると、外から見ていると理想的な家庭が意外に多いのも実は不思議なことではないのです。 はた目からはよく見えるように、家庭の中ではおのおのが抑圧されているだけなのではないでしょうか。 その抑圧が激しければも激しいほど、外に向かって爆発するときは問題が大きくなるのです。 家族がお互いにだれかに依存して生きていくということは、自分の本心を隠して依存する人に迎合しなければならないからです。 無意識の領域では迎合することを嫌っていても、現実の世界では迎合しなければ生きていけないのです。 この矛盾したことが子供が大きくなるとともに、子供の精神的成長を妨げるのです。
いい子を止めるということは、親にとってみれば子供が反抗することと映り心配の種は尽きないことになると思いますが、この道を避けて成長していくことは不幸への道を歩むことになります。 子供が自立する過程は直接には親への反発として現れるのが正常な成長過程ではないでしょうか。 この時点で親が高圧的に子供を押さえ込んでしまうことは、子供に対して殺人を犯していることに等しいとさえ思っています。 子供の親への反抗は、自立への道と紙一重ではないでしょうか。 ここのところを上手に育ててやれば、子供は立派に一人立ちしていけるはずです。 いくつになっても精神的にも一人立ちできない子供をお持ちの親の方は、ここのところを反省してみる必要があります。 反省してももう遅いかも知れませんが、気がつかないより気がついた方がいいと思います。 気がついたら、どのように教育方針を変更するかしないかは、ここではとりあげません。 これは個人の生き方、個人の責任の取り方の問題です。 私はただ、このような考え方もあるのだと言っているのです。 とは言っても、自分の発言に対して責任を負っていることは、十分承知の上でこう書いているのです。
私の言っているようないい子をやめること、止めさせることによって、子どもも親も生きていくことが楽になると信じて疑いません。 自立心のある子ども、素直に自分の感情を表現できる子ども、素直に自分の意見を発言できる生き方ができれば、この複雑な世の中を生きることも少しは楽しくなるのではないでしょうか。
世の中の壁が厚く、自分ひとりの力ではどうにもならないときは自分の考え方や方法を変えるしかないと思います。 この言い方は一見消極的な生き方のようにも見えるでしょうが、どうにもならないことにしがみついても、肉体的にも精神的にも自分を消耗するだけで、最後に待ち受けているものは失望と挫折感だけになるのではないでしょうか。 そのような生き方を積極的な生き方と言えるのでしょうか。 単に意地だけで生きているのではないでしょうか。 意地だけで生きていくことは、悲壮感が漂います。 まるで昔の武士の敵討ちの旅に似た生き方ではないでしょうか。 それよりも自分の考え方や見方を変えることによって、新たな道が開けるのではないでしょうか。 そしてそこで志を同じくする人々が集まって、ひとりではどうにもならないことも数を頼めば何とかなるかも知れません。 たとえはおかしいのですが民主主義も、こうしてできてきたのではないでしょうか。 現代は敵討ちのような悲壮な生き方をするか、考え方を変えて新たな生き方をするかも自由な世の中なのです。
何ごとも、最初は一人から、次には少数で、次には多数の意見となって社会を変えていくのだと思います。 私も最初の少数のうちの一人となりたいと願っています。 受け入れてもらえることは少なくても、このホームページで発言をしていきたいと思っています。