心の弱さ、気の小ささを気配りと勘違いしてはいないか

  人間関係の話題になると、必ず語られる話の中に「気配り」という言葉があります。 気配りということが数多く話題に上るということは、現実には気配りがおろそかにされていることの証拠だと言えます。 なぜなら当然行われるべきことが、当然のこととして行われていればそんなに話題になることはないからです。 当たり前のことは話題にはならないのです。 このことをよく記憶にとどめておくことも重要でしょう。 気配りを辞書で引くと

気配り  …  いろいろと気を配ること
心遣い
あまねく注意すること
配慮
心配

    などの意味がありました。

  気配りについて、なぜこれほどまでに語られるのでしょうか。 なぜ気配りが必要とされるのでしょうか。 人間関係をスムーズなものにするには、気配りが欠かせないからです。 お互いに思いやる気持ちがなければ、人間関係はぎすぎすしたものになり、その結果としてますます自己中心的な社会になってしまうからです。 相手のことは考えないで自分の言いたいことばかり言ったり、やりたいことばかりしている人を見て、あなたはどう思いますか。 楽しくなりますか、それともいやな気分になりますか。 言うまでもないことですよね。
 このように気配りに欠けるということは、自分自身をも苦しくしてしまうのです。 ここに気配りの必要性があるのです。
 

 しかし、必要以上に気配りをすることも、気配りに欠けること以上に本人のためにならないことなのです。 言いたいことばかり言っているような人は、自分がなにをしているかが分かっているのに対して、不必要なまでの気配りをしている人は、そのことの意味を分かっていない場合が多いからです。 すなわちこのような人は、自分が気配りをしているのは日常の人間関係に余計な摩擦を起こさないためと思っているはずですが、実は自分に自信がないため相手に悪く思われることを恐れるために、気配りをしていることが多いように思うからです。 本人はこんな風には思ってもいないでしょうが。 このような人の態度は、どこかおどおどしてはいませんか。 人がおどおどするということは、その人になにかしら引け目があるからではないでしょうか。 それをはたから見て気配りのできる人だというなら、とんでもない見当違いではないでしょうか。  

  気配りは自分に自信や思いやりのある人がやってこそ、本当の気配りではないでしょうか。 これは前にも書いたことなのですが、「臆病者は慎重にもなれない」と同じことで心の弱い人や気の小さな人には本当の気配りはできないのです。 そのような人のしている気配りとは、一見気配りには見えるけれども本質的には自分の立場を悪くしないための行為なのです。 あえて行為と言わせてもらい、気配りとは言いません。 現実から逃げるための自己保身の行為だと言ったら言いすぎでしょうか。 ちょっと言い過ぎかも知れませんが、本質はついているような気がします。

  気の小さな人や心の弱い人が、心配そうに「どうしたの、なにか心配事でもあるんじゃない」などと声をかけてくれることがありますが、その人は本当に相手のことを心配して声をかけているのでしょうか。 本当に相手のことを思いやって心配してくれているなら問題はないのですが、次のことのような理由のために声をかけているとしたらどうでしょうか。 相手の心配事の原因が自分にあるのではないかと思って、探りを入れるために心配を装って声をかけているとしたら、それは気配りと言えるでしょうか。 私も相当に根性が曲がっているようですね。 こんなことはしょっちゆうあることのような気がします。 心の弱い人や気の小さい人は、やっぱり本当の意味での気配りはむずかしいのではないでしょうか。

  若い頃の自分が、そのようでしたからよく分かるつもりです。 さまざまの試練を乗り越え、経験を積んできた人には相手の気持ちが分かるので、すなおに思いやりの気持ちを表現できるのではないでしょうか。 自分の経験に照らして、相手の心の痛みも分かるからです。 自分はどのような動機から気配りをしようとしているのか、よく考えてみる必要がありそうです。 

  そして気配りをしていて疲れるなら、その気配りは自己保身の可能性が強いし、肉体的・精神的に疲れていても気配りをしてもあまり疲れを感じなければ、その気配りは本当に相手のことを心配していると言ってもよいと思います。
 同じ行動でも動機が違えば、ものごとの持つ意味はまったく違って来ざるを得ないのです。 しかし他人の行動の動機を考えることすら難しいのに、見抜くことは至難の業です。

 最後に一つ、気配りは卑屈になることとは違うということです。 卑屈と気配りを混同してはならないのです。

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