自分の弱さを認められる人だけが強くなれる

  人はだれでも強く、頭が良く、そして社会的には人の上に立てる立派な人間でありたいと思っています。 それがかなわないまでも、そうなれればという願望を持っています。 だから自分には能力がないとか、弱いと言うことは認めたくないのです。 そう認めることは社会から落ちこぼれることを意味するからです。  自分が他の人より劣っていることが事実であればあるほど、その事実は認めたくないのです。 自分の無意識の世界では、自分が人より劣っていることを知っているので、絶対に受け入れられないのです。 それを受け入れることは、他の人からいじめられたり、馬鹿にされたり、利用されたりするだけでなく自尊心が傷つくからです。

  それを隠すために、お金もないのに気前のいい振りをしたり、虚勢を張ったり、知っている振りをしたり、有名人や政治家とつき合いがあるとか言って自分の弱さを隠そうとするのです。 弱い人間は次の二つのパターンに分類できると思います。 ひとつは自分がなにもできないことを認めて、なにも言えない、なにもしない、なにも決断しないで流れに飲み込まれていくタイプです。 もうひとつは虚勢を張るタイプです。 この意味からすれば虚勢を張る人はいがいと寂しがり屋とか、自分に自信を持てない人が多いと言えるでしょう。

  あなたの周りにも威張りたがりやの人がいると思いますが、一度視点を変えていやなやつだとばかり思わないで観察してみると、意外なことを発見できるかも知れませんよ。 威張り散らす人の中には本当の自分を知られることが恐ろしくて、威張っている人がかなりいると思います。 「稔るほど頭を垂れる稲穂かな」と言うことわざがあるように、本当に自信があって人間ができている人は頭の低い人が多いものです。  でもこのような人はいったん決断すると、他の人の言うことは驚くほどきかないこともあります。   このような人の普段の姿からは、考えもつかないような厳しいことや言葉が発せられることもありますが、それは周囲の人が(正確に言えばあなたが)考え違いをしていただけなのです。 自信のある人がなぜ普段は頭を低くしていることを気にしないかと言えば、自分に自信があるからなにを言われても、いざというときにはなんでもできるという心の余裕があるからです。 心に余裕のない人は、そのことを隠していないと安心できないのです。

  自分の弱さを率直に認めて、それを克服するために努力する人だけ、精神的に本当に強い人になれるのだと思います。 なぜならそのような人は人間の弱さも知っているので、強さと弱さの両方を知っているからです。  逆説的で賛成しかねる方も多いとは思いますが、人間はそもそもが不合理(矛盾)のうえに存在しているからです。 なにごとも合理性で割り切ろうとするから、よけいな苦労をすることになるのではないでしょうか。 西洋的な合理主義ですべてを合理化し、合理化できないものをすぐに排除しようとするから、すなおに人間を見ることができなくなってしまったのではないでしょうか。 あなたは自分の恋人や奥さんをなぜ好きになったのかを、合理的に説明できますか。 説明できたとすれば、それは打算だと言ったらどうしますか。 怒りますか。 それとも考え直してみますか。 私もここまで言うと、少しは言い過ぎかなと反省しないでもありませんが。

  人間のすべてを合理的に説明することができないということが重要なのです。 もともと人間存在は根本的なところで、非合理的なことに依存しているのだと言うことを認めてもらいたいのです。 合理主義だけで人間を理解しようとしている人や、行動しようとしている人をよく観察してもらいたいのです。 彼らは心安らかで、協調性があり、他人を受け入れる心の大きさを持っていますか。 彼らは自分をごり押しする利己主義的な性格の人が多くはありませんか。 もしくは、他人のことには無関心ではありませんか。 彼らは相手の立場を考えてくれていますか。 これだけ書けば十分でしょう。 私には、そう思うことが多いのです。

  弱さを知らない強さは見せかけの強さであって、はがねのようにもろいものだと思いますが、いかがでしょうか。 そのような人は自分の価値観や経験で判断できない事態に直面すると、あわてふためくのではないでしょうか。 自分の価値観や経験が通用しない世界では、柔軟性がないので対応しきれないのだと思います。 どんなことやどんなときにも、冷静に対応できる人が心の強い人だと思います。 ものごとの両面を知っているから、対応が比較的的確にできるのです。 鋼鉄は折れやすく(もろく)、軟鉄は折れにくいのです(柔軟)。

  自分の弱さを認めることは勇気のいることです。 自分の弱さを認めると、一時的にせよ周囲から奇異の目で見られるかも知れないからです。 だから周囲の目ばかり気にする人は、自分を変えられないのです。 周囲の目を必要以上に気にする人は、ものごとを自分の価値観で判断するのではなく、周囲の価値観によって判断しているから、自分を変えようにも変えられなくなってしまうのです。 自分の価値観にしたがってものごとを判断できれば生き方が楽になります。 それなのに周囲の価値観に従ってものごとを判断しようとするから苦労ばかりする事になるのです。

  なぜなら周囲の価値観が変われば自分の判断基準も変えなくてはいけないからです。 このことに関しては別のところで書いていますので、ここでは以上にします。

 裸の自分をさらけ出すことが必要なのです。 一度さらけ出してしまうと、生き方のすべてが以前とは比べものにならないほど楽になると思いますが、そのたった一度がむずかしいのです。 裸の自分を知られるとことは、自分が無防備になることなので恐ろしいことなのですが、いったん自分をさらけ出してしまうと後は隠す努力はいらなくなるのです。 いままで本当の自分を隠していた努力を、今度は前向きのことの向けることができるのです。 この一線を越えることができるかできないかに、すべてがかかっているのではないでしょうか。

  一気に自分をさらけ出せないのであれば、少しずつさらけ出す練習をすればいいと思います。 そのうちに生きることが楽しくなると思います。 生きる苦労はあまりなくならなくても、生きる悩みは大幅に減ると思っています。 自分の弱さとはある意味では本当の自分を受け入れられなくて、心の底では分かっていながらも、意識の世界に現実を受け入れられないことではないでしょうか。

  なにごとも習慣づけることが大切なのです。 一気に大きなことをやろうとしてもなかなかできるものではありません。 たとえ心構えは十分でも、方法やお金やそのほかの諸々の段取りができないのです。 方法は経験を通して身に付けていくものなので、気持ちだけがいくら先行しても全体としてのバランスがとれていないのです。 なにごとも小さなことから練習して、次第に大きなことにチャレンジすることです。 小さなことが達成できたことの満足感を軽視すると、なにごとにも喜びを感じられなくなるような気がします。 小さなこと・ささいなことをもっと大切にしたいものです。 このことは気が小さいと言うことではないのです。 なにごとにも気配りができるということなのです。 本当の意味で気配りができるということは、気の小さな人にはできないことなのです。 苦労を苦労と思えなくなってくれば、強くなってきた証拠だと思います。

  

  何度でも繰り返しますが、「自信とは自分で自分を頼ることのできる能力」なのです。 この世の中のことのほとんどすべてが、自分の考え方や見方によって変わってしまうのです。 それなのに自分の見方や考え方に首尾一貫性がなくなれば、この世の中のすべてが分からなくなって当然ではないでしょうか。

  ことの善し悪しは別にして自分の生き方に首尾一貫性があれば、そんなに社会や他の人の考えで右往左往させられることはなくなるはずだと思います。 この世の中のすべてのことの基準は自分だからです。 その基準がいつまでもぐらぐらしているから、生きることが苦しくなるのです。 悪い意味で開き直って生きている人や、ふてくされて生きている人たちをみてください。 彼等は、社会や周りの人の意見にいちいち振り回されていますか。 多くの場合、周りのことには「われ関せず」で生きている人が多いのではありませんか。 それは自分の生き方にしがみついて、他の生き方をまったく受け入れないからです。

  これはよくない方のたとえですが、自信を持つとはこのようなことのいい面なのだと思います。

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