子供のしつけ、教育の名の下に子供を束縛してはいないか

自由  …  色々の解釈がありますが。ここでは次の意味で使います。
           他からの制限・束縛・支配を受けないで、自分の意志によって行動できること
束縛  … 制限を加えて自由を奪うこと
保護  … たすけまもること

  先ず上の三つの言葉の意味を頭に入れておいて欲しいと思います。 「学級崩壊はなぜ続発するのか」のところで書いたように、教育の基本方針は社会に適応することと、個性の尊重を唱っていると思います。 社会に適応することには、適応することよりも迎合することに隠された目的があるように感ずるのは、私一人でしょうか。 ここではこの問題は扱わないので、別のところで私見を展開します。
 ここでは個性の尊重との関連について、書いてみたいと思います。 

  親達の教育やしつけの中心は、下記のような点に重点を置いているのではないでしょうか。

自由でのびのびとした人間
思いやりのある人間
知識と知恵のバランスのとれた人間
頭のいい人間 (知識のある人間)
なにごとにも積極的で意欲のある人間
責任感のある人間
素直な人間
決断力のある人間
自分を大切にする人間
明るい人間
組織や地域社会と上手に折り合いのつけられる人間

  まだまだあると思いますが、これくらいにしておきましょう。 これらの目標にはなにひとつ、だれひとり文句のつけようのないものばかりが並んでいます。 社会ではこれを正論と呼んでいるようですね。 そして親達のすべてが、子供をこのように育てるべく日夜涙ぐましい努力を重ねているのです。 しかしながら、現実はこのような目標と比較してどうなってしまったでしょうか。    

  なぜ目標と現実がこんなにもずれてしまったのでしょうか。 親達が涙ぐましい努力をして、子供を立派に育てようと努力したはずなのに、なぜいまのような状況になってしまったのでしょうか。 親達が努力をすればするほど、悪い方向に向かうのは一体どうしてなのでしょうか。 

  その原因を誤解を恐れずに言わせてもらえば、自由でのびのび、思いやりのある、決断力に富んだ感情豊かな子供を育てようとして、子供を束縛してしまったことにあると思います。 こう書くと、「私は子供を束縛した覚えはありません」と言う声がいまにも聞こえてきそうですね。 素直で他人様から後ろ指を指されないこと、他人様に笑われないような子供を育てるために、「あれをしてはいけません」、「これをしてはいけません」、「こんなことをすると○○君のようになってしまうから、ことなことをしてはいけません」と言って育てた結果が、今のような状況をもたらしたものと信じて疑いません。 親としては子供を守るためにしてきたことが、子供の自主性や個性を奪い、自らはなにもできない子供を作りだしてしまったのです。 子供は一番大切な感情のコントロールの仕方さえ分からなくしてしまったのです。 だから子供はすぐに切れてしまうのです。 子供がすぐに切れるのは、親が感情の発散の仕方を、表現の仕方を子供に教えてこなかったからだと断言いたします。 親が子供のためと信じてやってきたことの多くが、実は子供をだめにしたのです。 こんなことは言いたくはないのですが。

  人間は束縛されればされるほど反発したくなるものです。 それは、自分たちの若い頃を思い出してみれば分かるのではないでしょうか。 あなたは自分の親から言われたことを素直に受け入れることができましたか。 多くの場合は、反発を覚え、それをなんらかの行動で示したのではなかったでしょうか。 (今の子供は、反発の意志表示さえ禁じられているのではないでしょうか。) 素直に受け入れることのできた人が問題なのです。 そんな昔の子供が親になったとたんに、自分の昔のことはすっかりと忘れてしまい、自分が親からされたように子供を束縛してしまったのです。 まさに因果は巡るものだと思わざるを得ません。 偉そうなことを言って申し訳ないのですが。 ここで素直に謝っておきます。 でも事実は事実だから、仕方がありませんね。 

  昔は、(昔と言っても昭和40年以前ころまでと思ってください)その日の生活にも事欠くようなことも多く、親はいちいち子供にかまっている時間的な余裕はあまりありませんでした。 私は二十歳になるときまでは、中古の自転車さえ買ってもらえませんでした。 そのときは貧乏を恨んだものです。 そのようなことを言われた私の親の気持ちはいかばかりだったかと、いまは反省しております。 その結果子供は今に比べて親からいちいち指図されることなく育ったので、うるさく言われたり、束縛されることは少なかったのです。 自分で自分を守らなければ、親でさえも自分の子供を守ることは難しかったのですから。 子供は自分を頼る以外に、道は余り残されていなかったのです。 だからこそ、たくましくなれたのです。 自分でなんでもしなければ生きてはいけなかったからこそ、たくましくなれたのです。 このことを忘れないようにして欲しいものです。 いまのような青少年問題の起こる余地は、ほとんどなかったのです。 子供は外で遊ぶことが多く、自分の心を抑圧されることも少なかったので、反発の必要性をあまり感じなかったのだと言えます。 生活は苦しかったけれども、それはそれでいいこともあったのです。 

  いまの社会は、親が子供のすべての面に口を挟みすぎるのではないでしょうか。 そのことが青少年問題を大きくしているのではないでしょうか。 理由はここに書いてあるとおりです。

  やっぱりいまの青少年問題や学級崩壊の根本的な理由は(「あえて根本的な理由のひとつ」とは申し上げません。 これが理由のすべてだと言っているのです)、親が子供のためを思ってしてきたことが、結果的に子供を束縛しすぎたことにあると思いますが、いかがでしょうか。 親は一人ひとりを取りあげてみれば、心の底から子供のためと思ってしたことが、子供の心を病ませてしまったのではないでしょうか。 ここまで書くことは、行き過ぎなのでしょうか。 私にはそのように思えてならないのです。

  自由、平等、人権、人格と言った人間に固有のものに対する、考えかたのどこかに間違いがあるいは行き過ぎがあったのではないでしょうか。 その間違いを改めることなくして、青少年問題の解決はあり得ないと思います。 分かりやすい例を挙げれば、「○○をしてはいけません」と言ったような否定的なしつけの仕方がいけないと言っているのです。 これまあくまでも、ひとつの例にすぎないのですが。

  子供が子供の年代に経験しておくべきことまで、いけないことだからとか、危険なことだからと言って経験させないから子供の心が育たないのです。 子供に一人前の人間になる能力が欠けているのではなく、親が子供を一人前の人間にならないように努力してしまっているのです。 このことに関しては「経験がひとをつくる」を読んでいただきたいと思います。

  この件についてはまだまだ書きたいことはありますが、このくらいにしておきますので、他のページをご覧戴いて考えて欲しいのです。

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