毎日、日は昇る

  いまさら、なんであたりまえのことを言っているのだと思う人も多いと思います。 でも、生きることがつらくなるとあたりまえのことが見えなくなってしまうのです。 自分の経験からしても、世間はなにひとつ変わっていないのに自分の考え方が変わってしまうと、世の中はまったく違って見えてしまうのです。 世間や相手が変わったのではなく、自分が、自分の考え方が変わっただけで世の中のすべてが違って見えてしまうのです。

  これから言えることは、自分の考え方を積極的な考え方に変えることができれば(これができないのですが)、世の中は違って見えるはずなのに、苦しいときはそれができないのです。 分かっていてもできなくなるのです。 そんなときは、自分の考えが自然に変わるまでじっと待つしかないのかも知れません。

  なにもしないでじっと耐えることが、一番いいときもあるのです。 自分から考え方を変えることができなければ、考え方が変わるまでじっとチャンスを待つことも生きる知恵かも知れません。 私はこのホームのむなかで、忍耐についてはあまり触れてきませんでしたが、耐えてチャンスを待つことも大切なことです。 いまの若者の多くは、親がなんでも子供の希望を叶えてくれることが多いものですから、耐えることができにくくなってしまったと思います。

 私は「経験こそが人を育ててくれる」と何度も書いてきましたが、「忍耐こそが人を育ててくれる」と言い直しても同じことです。 チャンスは耐えることを知らない人には、ほほえまないと思います。 「座して死を待つ」のではなく、「座してチャンスを待つ」ことが大切なのです。 忍耐のできない人は、自分で自分の生き方をつらくしていると言っても過言ではないと思います。 

  毎朝、日は昇るのです。 それを見るか、見ないのかは各人次第なのです。 目には映っていても気がつかないことがあるのです。 チャンスは目の前にあるのかも知れません。 ただ自分が、それに気づいていないだけかも知れません。 考え方が消極的になってしまって、なにも見えなくなっているのだと思います。 生きることがつらくなれば、だれでも同じなのです。 自分だけがつらいのではありません。

  だから生きることがつらくなったときは、なにもしないでぼんやりすることも大切なのです。 どうせ考えても、あまりいい方法が思い浮かばないと思うのです。 あせればあせるほど失敗する確率が高くなるだけです。 または、いままでとは全く違うことをしたり、全く違う環境に自分をおいてみることも有効だと思います。 つらくなったら、とにかくいままでとは違うことをしてみることです。 いままでとは違うことには、なにもしないでぼんやりすることも含んでいます。 ぼんやりできなくなったときは、心に余裕のなくなったときであり、心の危険信号です。

  ぼんやりするためには、心に余裕が必要なのです。 つらいときは、じっと耐えて心に余裕の出てくるのを待つことも、生きることを楽にするには大切なことのひとつだと思います。

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