物事の終わりは、同時にはじまりでもある

  ものごとの終わりは終わりでしょうか、 それともはじめでしょうか。 昔の有名な歌の中に、次のような歌詞があります。 「合うが別れのはじめとは…」という歌詞です。 古い歌なので、知らない人が多いでしょうね。 常識的な考えからすれば、終わりは終わりに決まっているではないかということになるでしょう。 しかし、ここでよく考えて欲しいのです。 「おしまい」とはいままでのことが終了したということであって、それですべてが文字通り終わって、これから先のことはなにもないということではないと思います。 

  つまり、「終わり」とは、いままでのことが完結してひとつの結果がでたということでしかないのです。 これからものごとが新たに始まるための、ひとつの通過点にすぎないということです。 これを端的に表す言葉として、英語のLASTという単語があります。 私たちは「最後」と通常は翻訳しますが、本来の意味は「最近」ということだそうです。 現在から過去を見た場合、現在にもっとも近い時点で起きたことが「最近」なのです。 現在にもっとも近いから、現在から見て「最後」なのです。 大分回りくどいですが、お分かりいただけるでしょうか。 ぜひ一度辞書で確認してください。 国語辞典を引いてもだめですよ。

  私が知っている範囲でもう一つ例を引けば、WANTと言う単語は通常は「欲求」と翻訳しますが、本来の意味は「欠乏」です。 ないから欲しくなるのです。

  終わりとは、ここからまた新しいことが始まるという意味に解釈することが必要だと思います。 日本語としての常識的解釈からは、文字通りの終わりであって将来へつながることは見えてきませんが、いかにも日本人らしいものの見方だと思います。 ひとつのことにケリが付いて、新しいことが始まるのが「おしまい」の本当の意味です。 失恋したときなどにすべてが終わってしまったと考えるから、自殺を選んだりするのです。 新たなことが始まるチャンスだと考えれば、心の傷も少しは和らぐと思います。 こうは言っても、失恋のさなかにある人に話せば、「人の気も知らないで」といって怒られるだけだということは承知しています。 ただ、落ち着いて心の余裕がでたときに上のように考えることができれば、ものごとの多くがプラスの方向に進むと思います。

  この例として、次のようなことを考えてみてください。 日本人とアメリカ人の比較です。 いまでこそ日本でも離婚とか再婚ということがごく日常的に耳にするようになりましたが、一昔前の日本ではあまり考えられませんでした。 昔の日本と言っても昭和の30年代までは離婚と言えばいくら男性が悪くても、世間では女性が悪いから離婚したのだと言い、女性が再婚するというと「とんでもない女だ」 という風潮が強かったのです。 ただし、第二次世界大戦で多くの男性が戦死して女性が多くなり、女性が再婚した例が多くありますが、これは特殊なケースでしょう。 離婚は人生のすべての終わりを意味していたのだと思います。 どんなにひどい夫でも、その夫に付き従うことが日本女性の美徳とされてきたのです。 私も昭和20年の生まれですので、小さいときはこのような環境の中で育ってきました。 未亡人という言葉も、おなじような意味を持っています。 「いまだ滅びない人、まだ死んでいない人」と言うことになります。 これなどは妻というものが、夫に嫁ぐのではなく、家に嫁ぐことを意味しています。 夫が早く死んでも、その家から離れることができずに、肉体は生きていても心が死んでしまった状態をさしているように思えます。

  一方アメリカ人の夫婦が簡単に離婚することが、私にはしばらくのあいだ理解できませんでした。 なぜあんなに簡単に離婚できるのだろう。 なぜあんなに簡単に再婚できるのだろうと。 でも生きるとはどういうことかを考えはじめると、それが理解できるようになってきました。 アメリカ人は決して薄情ではなかったのです。 それは将来に対する日本人とアメリカ人の考え方の相違なのです。 終わりを終わりと考えてそこで完結させるのか、完結させた後のことを考えるのか相違なのです。 

  アメリカ人の離婚の理由の多くは、もっと素敵ないい人生を送りたいということであり、日本人のそれはもう現在の生活を続けることに耐えられないからということなのです。 独断と偏見に過ぎないでしょうか。 日本人の離婚の場合はもっと生き甲斐のある生活をしたいというのではなく、将来のことはどうでもいいが、いまの生活に耐えられないということだったのです。 アメリカ人は、個人主義の発達した国民はと言い直した方が当を得ていると思いますが、常に将来のことを考えており、日本人の場合は過去のことと世間の目を考えていることが多いようです。 これは考え方の相違であって、考え方の相違は歴史の産物なので、一口にどちらがいいとか、悪いとかの判断を下すことは難しいのですが、ものごとを考えるときに重要なことは、

過去にこだわるのか、将来を考えるのか
自分の幸せを優先するのか、周りの人の幸せを優先するのか 
       ・周りの人の幸せを優先することは、自分を犠牲にすることにつながります
自分の判断を優先するのか、周りの判断を優先するのか
       ・これは非常に大切なことなので、改めて書きます
過去を無駄と考えるのか、過去を人生の勉強と考えるのか
       ・これもあとで徹底的に考えます
経済的利益を最優先するのか、心の豊かさを最優先するのか
       ・現実にはこれらの割合をどうするのかだと思います
 「最後」を「おしまい」と考えるのか、「はじめ」と考えるのか
この道しかないのか、ほかの道はないのか

 このようなことを忘れないことが、幸せへのひとつの方法だと思っています。

  出会いがあるから別れがあるのです。 出会いがなければ別れもないのです。 世の中はすべてが相対的にできているからです。 別れをいつまでも後悔する人は、出会いがなければよかったのです。 そうは言っても、初めての出会いがあったときに、別れを考える人は気違いか変人です。 こう断言します。 「あえて断言する」と強調します。 出会いをこのようにクールに考えることのできる人がいれば、その人は本当にニヒルな人だと思います。 ちまたではニヒルという言葉が、一種流行語のように用いられることもあるようですが、出会ったときに別れを考えられる人はいずれは自殺するような人のような気がします。 ものごとに感動できない人です。 ニヒルとは格好のいい言葉ではなく、恐ろしい言葉なのです。 決してニヒルになってはならないのです。

  過去を後悔するような生き方や考え方をすると、「終わりは本当に終わり」になりがちです。 過去は無駄になってしまうのです。 どんな過去でも、いつかは自分で納得できるような生き方をしたいものです。 いつ納得できるかこそが問題であり、個人の資質の問題です。 これは個人で努力して、どのように考えるかしか方法はありません。 だれも教えてくれません。 だれも助けてはくれません。 この意味では人生は孤独なのです。 本人が自覚して努力する以外に方法はないのです。  

  ものごとの終わりは終わりではなくて、次の新しいことへの通過点なのです。 苦しいときや悩んでいるさなかに、こう思えないことは百も承知の上で、こう書いています。 あとで(それがいつになるかは、個人個人で違いますが)過去を振り返ったときに、そう思えるだけなのです。 しかし、こう考えられないで一生を惨めに終わっていく人の方が多いと思います。 どちらの人生を歩みたいですか。 あなたの好きな道を歩んでかまわないのですよ。 それしかないのですから。 自分の好きな道を歩む以外に、それ以外の道はありえないのですから。

 死ぬことさえも、人生の通過点だといくらかは信じられるようになってきたと思います。 死ぬことがあるから、生きることがあるのだと。

  人生にいくつもの生き方がありますが、結果としてはひとつしかないのです。 だから、「この生き方しかなかった」ということになるのです。 そのときどきで、選択肢は複数だったのです。 だが、そのときどきに選ぶことのできる道は、ひとつしかなかったのです。 ここで決断できなくて二兎をおってしまうからなにもできなくなり、自信を失ってしまうのです。 これは非常に大切なことだと言えます。 

  いつかは「ものごとの終わり」を、新しいことへのステップにしなければならないのです。 そうできる人だけが、しあわせになれるのだと信じています。

トップページへ戻る