あたりまえであることのありがたさ

  私は平成11年11月から翌年の1月にかけて腰部椎間板ヘルニアで入院しました。 そこで身をもって学んだこと、再確認できたことを書いてみたくなりました。 なにを学んだか。 当然と言えば当然すぎることを学びました

「あたりまえ・健康であること」のありがたさ
将来に希望を持てることのありがたさ
安心して命を任せることのできるありがたさ
家族のありがたさ

 ほかにもいろいろありましたが、この4つについて述べてみたいと思います。

  第一は「あたりまえ・健康であることのありがたさ」です。 私のこのホームページの中で「この世の中はすべてが相対的だ」と言いましたが、まさにそのことをいやというほど思い知らされました。 私が健康のありがたさを忘れるといけないから、天が私に忘れないようにと入院させたとしか思えませんでした。 私が入院したのは今回がはじめてなのですが、毎日文句や不平を言いながらも健康でいられることのありがたさを実感しました。 健康なときには骨休めのために一ヶ月くらい入院したいと、本気半分・冗談半分で思ったりしましたが、こんなことは考えてはならないと分かりました。

  第二は「将来に希望を持てることのありがたさ」です。 どういうことかと言うと、私の場合は手術すれば完治すると分かっていました。  でも完治することが分かっていても、手術後の一週間くらいはとてもつらく感じられました。 たった一週間でしたが、つらかったです。 難病などで治る見込みのないまま毎日寝てだけいる患者さんをみていると、その患者さんや家族の方がどんな思いで一日一日を過ごしているかと思うと、心の内が想像できなくなりました。 希望を見いだせずにただじっとしている、あるいは死を待っていることがどんなにつらいことなのかが想像できなくなりました。 希望を持つも、持たないも本人の考え方次第だという意見もあるでしょうか、それは他人の立場を理解できないひとのたわごととしか思えなくなりました。

  希望を持てるということが人生にとってはどんなに大切なことなのかが、分かったような気がしました。 だから希望が絶望に変わったときにはどうなるか、なってみなければ分からないのです。 しあわせの絶頂から奈落の底に突き落とされたときにどうなるのか、なってみなければ分かりません。 理屈では分かっていても、そんな理屈は役に立たないのが普通でしょう。 こんなときに人間の真価が問われるのです。

  第三は以前に書いたことなのですが、自分たちの生活が便利になるあるいは安心して生活できるということは、その陰に必ずだれかの努力や犠牲があるということです。 私が安心して手術を受けることができたのは、医師や看護婦さんの寝ずの看病があり、そして家族の協力があったからです。 これについては「便利になるということ」を読んでください。

  第四は言うまでもないことです。 私の場合は夜家族が付き添う必要はなかったのですが、周囲の患者さんをみていると奥さんやおばあさんが自分の体のことも考えないで、夫の看病をしている姿には胸を打たれました。 男にはまねができないことです。 日常生活では夫に文句ばかり言ってるような奥さんでも、いざとなれば親身になって家族のことを心配してくれるのです。 世の男のご同輩、奥さんに文句ばかり言われていることが多いと思いますが、いざというときのために奥さんを大事にしましょうね。 とくに胸を打たれたのは夫の癌の末期を隠しながら、看病しているおばあさんの姿です。

  今回の入院で、あらためて人の世のつながりの不思議さを感じました。

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